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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

心の中の石

ヨハネ11:39,40

イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。

  マルタは弟ラザロが葬られた墓の前で、自分の推論によって判断して「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」と神の御子に意見した。マルタの思いにも一理はある。自分の弟が死んで四日も経っていたのだ。そんな状態は見たくもなかったろう。もし何も奇蹟が起こらなかったら、さらに悲しい思いをしなければいけないから、このままそっとしておいて欲しい、という考えが浮かんだのかもしれない。それでもやはり、主の前では不信仰であったことには変わりない。

 多くの点で マルタは、クリスチャンの現状の典型である。ときに主イエスの働きが理解できず、つぶやいたりするが(21節「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」)、それでもイエス・キリストの力を信じ(22節「あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」)、正統的知識を持っている(24節「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」)。そして主イエスの真正面からの問いかけに対して、はっきりと信仰告白をすることができる (25-27節「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」)。

 しかし多くの場合、私たちは困難な状況を前にして、あきらめてしまったり、勝手に結論づけてしまう。先日、ある牧師が長年うつ病で苦しんでいるが教会に通い続けている男性と話しているのを、私は近くで聞いていた。一通りイエス・キリストについて教えを語った後、その牧師は「あなたはイエス・キリストがここにおられ、今あなたを救い、完全に癒すことができることを信じるか」と聞いた。うつ病の彼は「信じる」と明確に答えた。その時、私は主の臨在を感じ、心の中で祈り始めた。しかし、牧師はこの男性の回答に満足したのか、その場から祈らずに去ってしまったのである。この牧師がどの様な考えで祈らなかったかはわからないし、各自は主の前で責任をもっているので裁くことはできない。ただこの経験は、ラザロの墓の前のマルタについて、また私たちの信仰について、省察を促したことは確かである。

 時に私たちは、目の前にいる霊的死に閉じ込められた「ラザロ」に向かって、「石を取りのけなさい」と言い、主イエスが自分に命令したことを「ラザロ」に転嫁したり、「ラザロよ、出てきなさい」と言って、主イエスしかできないことを自分ができる、もしくはやらなければいけない、と勘違いしたりする。

「肉体的死からのよみがえり」を全面の押し出し、宣教している者がいるようだが、今ここで書いている霊的状況は、はるかにデリケートで、深刻で、広範囲な問題だ。

 主イエスがマルタを叱咤した言葉(40節「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」)と、父なる神への祈り(42節「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」)を読むと、 主が私たちに求めているのは、どんな状況においても「神の栄光を求めること」「父なる神が御子を遣わされたことを信じること」であることが理解できる。

 この二つの要求は、困難な状況における私たちの心を祈りに導いてくれる。まさにイエス・キリストが私たちに授ける「負いやすいくびき」「軽い荷」(マタイ11:30)だと言える。

 もし自分の栄光を求め、自分で何か偉大なことをしなければならないのなら、心は縛られてしまうだろう。また、もし父なる神は御子の霊を罪びとである私たちに授け、今も私たちをこの世に遣わしていることを認めなかったら、誰かに責任転嫁しつづけるだろう。

 これらのことは認めることによって、私たちの心の中にある「石」を取り除くことができるのだ。