マタイ26:64-66
イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。
すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。
イエスは、ご自身そのものをこの世に示したが故、「神を汚す者」として人々から死罪に定められた。人類は、イエスがご自身を啓示されたその啓示を理由に、神の子イエスを拒絶し、十字架に架けた。
ヨハネ19:14,15
その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
自分のうちに「彼を十字架につけよ」という拒絶の力があり、イエスではなく自我を「カイザル」として選ぶその傲慢さを知るとき、「悪」が外因的なものではなく、自分のうちに確かに存在すること、聖書が言う「罪」とは何なのかを確かに知るのである。
聖霊によるこの啓示なくしては、救いも罪の赦しも単なる知識でしかない。全てが実態の伴わない、表面的な言葉の羅列にしか過ぎない。
悪は、善に対する明らかな否定、そして拒絶である。
神は悪を創造したのではなく、自由意志をもつ存在を創造された。もし被造物に選択の自由がなかったら、意志は意志であることはできず、その存在すら「力」の中に消えてしまっていた。しかし神は愛であるが故、ロボットではなく、選択の自由を持つ意志を創られた。
そして潜在的であった悪は、善を否定する選択によって実体をもつようになったのである。ルシファーの選択であり、ここに悪の否定的な本質がある。
悪は、自由意志の創造の不可避的代価であった。
だからこそ、神はその代価を払う計画を、キリストの死によって実現したのだ。
義も愛も自由意志さえも損なうことなく。
ヨブ36:22-25
見よ、神はその力をもってあがめられる。
だれか彼のように教える者があるか。
だれか彼のためにその道を定めた者があるか。
だれか『あなたは悪い事をした』と言いうる者があるか。
神のみわざをほめたたえる事を忘れてはならない。これは人々の歌いあがめるところである。
すべての人はこれを仰ぎ見る。人は遠くからこれを見るにすぎない。