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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「ふるび衰える骨」、そして主イエスの十字架

詩篇32

1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。

2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。

4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ

5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。

7 あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ

8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。

9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。

10 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。

11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。

 

主の光に照らされる時、

闇に隠されていた醜さはその実態を顕し、

慢性化した鈍痛によって麻痺していた良心は、

鋭い痛みにもがき始める。

 

逃げようにも身動きとれず、

避けようにもそれは目を離さない。

 

容赦ない夏の日照りのように、

影においてもそれはあらゆる力を奪い去る。

 

「ふるび衰える骨」

私を内側から支えていたあらゆるものが力を失った。

 

しかし、渇き切ったその場所に、

御子の十字架が変わらず、静かに立っている。

 

Ⅰヨハネ1:5-10

5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。

6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

「聖霊の働き」と「人間による吟味・検証」

使徒17:10-12

10 そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。

11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。

12 そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。

 この有名なエピソードは、シリアのアンテオケ教会から遣わされて伝道していた使徒パウロとシラスが、ベレヤの町のユダヤ人会堂に通っていたユダヤ人たちに対して、初めて福音を語ったときのことである。

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 その地理的文脈から考えて、べレヤの会堂に通っていた人々はギリシャ語を話すヘレニストのユダヤ人であり、11節で言及されている「聖書(複数形)」も、ギリシャ語訳の旧約聖書であったと思われる。12節の多くの信仰者の中に「ギリシヤの貴婦人や男子」がいたと書かれていることが、ギリシャ語によるコミュニケーションを暗示している。

 そしてこのエピソードにおける福音の告示から信仰に至るまでのプロセスは、とても重要なものである。 

①使徒パウロとシラスによる福音の告示

②べレヤのユダヤ人たちによる受け入れ(「心から教えを受け入れ」)

③べレヤのユダヤ人たちによる、聖書を基にした検証(「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。」)

④べレヤのユダヤ人たちの信仰(「そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。」 新改訳「そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。」)

  べレヤのユダヤ人たちの信仰が、前の三段階の「帰結」として表現されており、また特に③におけるべレヤの人々のある程度の時間の経過を伴う検証(「日々聖書を調べていた」)は、使徒たちによる一方的な押し付けや洗脳、もしくはその場の雰囲気に流された早急な決断といった種類のものではなく、福音を聞いた人々の主体的・理性的な行為であることが示されているのである。

 勿論、この福音を聞いた人々の主体的・理性的な検証行為のうちに、神の聖霊の啓蒙や導きの働きが伴うことは、前提としてある。

ヨハネ14:26

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう

ヨハネ16:13

けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

Ⅰコリント2:9-13

9 しかし、聖書に書いてあるとおり、/「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、/人の心に思い浮びもしなかったことを、/神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」/のである。

10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い霊によって霊のことを解釈するのである。

 主なる神が、ご自身の賜物としての恵みを人間が悟ることができるように、また霊のことを解釈することができるようにと、聖霊を遣わしてくださった。

 この「聖霊の働き」と「人間側の主体的・理性的行為としての吟味・検証」という観点でみると、以下の聖句にも一貫した真理を見出すことができる。

Ⅰコリント5:19-22

19 御霊を消してはいけない。

20 預言を軽んじてはならない。

21 すべてのものを識別して、良いものを守り、

22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

 御霊に最大の信頼を置き、その働きを妨げずに身をゆだねることによって、「すべてのものを識別して、良いもの守り、あらゆる種類の悪から遠ざかる」ことができるのである。

ピリピ4:8-9

8 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。

9 あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。 

 また信仰者としての人間による判断や評価に基づいた、

「すべて真実なこと」

「すべて尊ぶべきこと」

「すべて正しいこと」

「すべて純真なこと」

「すべて愛すべきこと」

「すべてほまれあること」

「徳といわれるもの」

「称賛に値するもの」

という、非常に「間口の広い」価値観に対して、「心に留める」という対応を勧めているのと同時に、使徒パウロから

「学んだこと」

「受けたこと」

「聞いたこと」

「見たこと」

つまり、より福音的・霊的な価値観に対しては、「実行しなさい」と、より強い勧告をしている。

教義や偏見による「モザイクフィルター」

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 上の作品は、ウィキペディアの「水墨画」のページにある、長谷川等伯作『松林図屏風 左隻』(東京国立博物館、国宝)の写真である。

 中と下の映像は、上の作品にモザイク加工をしたものである。特定の位置の区画内の色の占有率から「代表する色」を決定するアルゴリズムによって、「フィルターがかかった」イメージである。

 中間のイメージはまだ色の「滲み」を感じさせるが、一番下のイメージからはもう、原画の柔らかで空気を感じさせるようなグラデーションを想像することはできない。

 実感するのは難しいのだが、聖書を読むとき、特定の教義や偏見による「モザイクフィルター」がかかってしまって、聖書自身が表している「際立ったコントラスト」や「深みのあるグラデーション」を見失ってしまうことがある。「これは『信仰による義認』を証明している聖句」とか、「ここはカトリックはこういう風に解釈し、プロテスタントでは異なる解釈をする」といった具合に、である。それは原語で読もうが、他国語で読もうが関係なく生じる、人間の認識による作用である。

 モザイク加工した屏風を見ても何の感動もないのと似て、私たちの持っているフィルターが強ければ強いほど、聖書を読む楽しみや喜びは減っていく。すでに持っている知識や偏見が邪魔して、新鮮な光を放たなくなってしまうからだ。これは程度の差はあれど、多くの信仰者が経験していることではないだろうか。

 しかし聖霊なる神が生きておられ、今でも遜る魂に対して、「幼子のような心」で聖書を通して御声を聞くように導いておられると信じる。

詩篇19:8(新改訳)

主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、

主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

サムエル上3:1-10

1 わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。

2 さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。

3 神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、

4 主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、

5 エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。

6 主はまたかさねて「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。エリは言った、「子よ、わたしは呼ばない。もう一度寝なさい」。

7 サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。

8 主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。

9 そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。

10 主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。

エペソ1:17-23

17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、

18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、

19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、

21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

詩篇38篇(2)罪における人間の実態

詩篇38

1 記念のためにうたったダビデの歌

主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。 

2 あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。 

3 あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところはありません。 

4 わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。 

5 わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。

6 わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。 

7 わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。 

8 わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。 

9 主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。 

10 わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。 

11 わが友、わがともがらはわたしの災を見て離れて立ち、わが親族もまた遠く離れて立っています。

12 わたしのいのちを求める者はわなを設け、わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、ひねもす欺くことをはかるのです。 

13 しかしわたしは耳しいのように聞かず、おしのように口を開きません。 

14 まことに、わたしは聞かない人のごとく、議論を口にしない人のようです。 

15 しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそわたしに答えられるのです。 

16 わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、わたしにむかって高ぶる彼らにわたしのことによって喜ぶことをゆるさないでください」と。 

17 わたしは倒れるばかりになり、わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。 

18 わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます。

19 ゆえなく、わたしに敵する者は強く、偽ってわたしを憎む者は多いのです。

20 悪をもって善に報いる者は、わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。

21 主よ、わたしを捨てないでください。わが神よ、わたしに遠ざからないでください。

22 主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください。 

  聖霊を通して主なる神の義と聖の光を受けた詩篇記者ダビデは、自分の現実の姿を認め、それを実に生々しく表現している。

  • わたしの肉には全きところなく
  • わたしの骨には健やかなところはありません。
  • わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。
  • わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
  • わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。
  • わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。
  • わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
  • わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
  • わが友、わがともがらはわたしの災を見て離れて立ち、わが親族もまた遠く離れて立っています。
  • わたしのいのちを求める者はわなを設け、わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、ひねもす欺くことをはかるのです。
  • わたしは耳しいのように聞かず、おしのように口を開きません。
  • わたしは聞かない人のごとく、議論を口にしない人のようです。  

 ダビデが肉体的に病気を患っていたかは定かではないが、心の罪責感がダビデの身体からも力や健康を奪っていたことがよくわかる。また対人関係などにも深く悪影響を与えていたことも記されている。

 このような告白は、詩篇32篇の中にもみられる。

詩篇32:1-5

1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。

2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。

4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ

5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

 魂が渇ききり、負いきれないほどの重荷に呼吸さえできず、慢性的酸欠状態の中にいるような、また方向性を失って彷徨い、暗闇に一人佇む状態。申命記28:15-68に啓示されている「律法による神の呪い」の中でも言及されている「罪における人間の実態」である。

 しかしこの詩篇は、そのような絶望的な実態にもがき苦しむ魂には、恵みと憐みによって、「主よ」(1、9、15、21、22節)と呼び求め、ご自身の正義と神聖によって「怒り」を示す神に向かって、「わが神よ」(15、21節)と叫ぶことが許されているのが啓示されている。

 その恵みは、私たちすべての罪とその呪いを十字架の上で背負った御子が、その十字架から「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫び、私たちの身代わりとなって命を捧げてくださった、その御子の霊によって私たちのに与えられているものである。

詩篇38篇(1)神の怒り

詩篇38

1 主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。

2 あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。

3 あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところはありません。

4 わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。

5 わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。

6 わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。

7 わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。

8 わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。

9 主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。

10 わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。

11 わが友、わがともがらは/わたしの災を見て離れて立ち、わが親族もまた遠く離れて立っています。

12 わたしのいのちを求める者はわなを設け、わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、ひねもす欺くことをはかるのです。

13 しかしわたしは耳のきこえない人のように聞かず、口のきけない人のように話しません。

14 まことに、わたしは聞かない人のごとく、議論を口にしない人のようです。

15 しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそわたしに答えられるのです。

16 わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、わたしにむかって高ぶる彼らに/わたしのことによって喜ぶことを/ゆるさないでください」と。

17 わたしは倒れるばかりになり、わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。

18 わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます。

19 ゆえなく、わたしに敵する者は強く、偽ってわたしを憎む者は多いのです。

20 悪をもって善に報いる者は、わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。

21 主よ、わたしを捨てないでください。わが神よ、わたしに遠ざからないでください。

22 主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください。

 真なる神を知ろうとするとき、またその神が啓示している救いを求めるとき、「神の怒り」というテーマに向き合わずにいることはできない。詩篇記者であるダビデ王も、「あなたの憤り」「激しい怒り」「あなたの怒り」という表現を使って、その現実に向き合っていた。勿論、聖書はその「神の怒り、憤り」が人間のうちに見られるような感情的な顕れとは異なることを啓示している。

ヤコブ1:20

人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

 神の怒りとは、人間の不義や罪に対する神の絶対的な正義や神聖さの啓示である。その啓示は抽象的な概念の提示よりもはるかにアクティブで、聖霊を通して受け取り側に強く働きかけるようなものであることは、「私を責める」「私を懲らす」「私に突き刺さる」「私の上にくだる」というダビデの表現からも理解できる。

 勿論、これらの強烈な表現から、神の正義の啓示に対して反抗心を抱き、「神の怒り=愛の欠如」と考えるのは間違っている。もしダビデが「神の怒り=愛の欠如」と考えていたら、何度も「主よ」と祈り求めることはできず、むしろ神の峻厳さに反抗していただろう。

 罪や不義に光を当てることが不当なのではなく、問題は私たちの罪や不義そのものだからである。それは3節にも示されている。

3 

あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、

わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところはありません。

 「あなたの怒りーわたしの肉」「わたしの罪ーわたしの骨」という関係がとても興味深い。つまり神の正義と神聖さの啓示によって、ダビデは自分の罪深さを悟らされていたが、それは自分自身の存在の核に「健やかなところがない」からであって、神の怒りがダビデの罪を増幅させていた、という意味ではない。

 電気を止められ、窓を閉めきったゴミ屋敷に入り、すべての窓を開けることが家の中のゴミを増やすのではない。窓から差し込む太陽の光は、ゴミに埋もれた家の中の実態に見えるようにしているだけである。

 しかし私たちの性質は、憤った神が窓を開け、外から火を投げ込んで家ごと燃やしてしまおうとしている、と考えがちである。実際には、主なる神は「ゴミ屋敷のゴミ」と「ゴミ屋敷の中に埋もれて生きている住人」とを識別してみておられる。

 以下の聖句によっても理解できる。

ローマ1:18

神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

新改訳

不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して

塚本訳

神の怒りが彼らのあらゆる不信と不道徳とに対して

 「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間に対して、天から啓示される」とは書いていないのである。勿論、もし人間が頑なに神の真理の働きを阻み続け、それを最後まで続けた場合には、その人間自身の選択によって、永遠の裁きを受けることになる。

コロサイ3:1-8

1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。

7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。

8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。 

 「これらのことをして」いたから、それを続けるなら「これらのことのために」神の怒りが下るとあるが、それと同時に「これらいっさいのことを捨て」ることは命じられているのは、イエス・キリストの十字架の働きによって捨てることが可能であるという、絶大な恵みの前提があるからである。

Ⅰヨハネ1:5-10

5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。

6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

2:1-2

1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

 

病室にて

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「生きたい」と願いながらも

老衰していく肉体に閉じ込められている魂を前に、

人間は何をなし得ようか。

 

「正統性の自負心」のなかに籠城する宗教にとって、

薄暗い病室は、まるでゴルゴタの丘のように無意味で忌々しい場所なのか。

それははるか遠くに立ち、美しい神殿を見つめている。

 

薄っぺらいガラスのように脆く、

細い糸のように頼りのない空気、時、場。

 

しかし、ここにも「いのち」が静かに待っている。

十字架に架けられた御子のなかで。

 

主なる神が備えてくださる「祈りの場」

ヨナ1:17;2:1-10

17 主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。

cap.2

1 ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、

2 言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。

3 あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。

4 わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。

5 水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。

6 わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。

7 わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。

8 むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。

9 しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。

10 主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。

  このエピソードを字義的に解釈しようが、または単なるシンボリズムとして捉えようが、魂の経験という意味においては、驚くほどリアリティーがあることは多くの信仰者が認めることではないだろうか。

 確かに主なる神は、自分の言動の結果に苦悩する人間にも「祈りの場」を備えてくださる。それはまるで未知の生き物の中にいるかのような、暗く、孤独で、四方から圧迫を受けてもみくちゃにされるような、そして生命力の全てを奪われるような経験かもしれない。這いつくばり、のたうち回って、泣き叫ぶしかないような「祈り」かもしれない。

 しかしその「祈り」は確かに、十字架に架けられ、葬られ、そして三日三晩ののち復活した御子イエス・キリストにおいて(In Christ)、主なる神の聖なる宮に達するのである。

わが魂がわたしのうちに弱っているとき、

わたしは主をおぼえ、

わたしの祈はあなたに至り、

あなたの聖なる宮に達した。

 むしろ十字架に架けられた御子の霊が、聖霊を通して、弱い罪びとである私たちの為にとりなしてくださるのである。

ローマ8:26-27

26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。

27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。