詩篇38篇(1)神の怒り
詩篇38
1 主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。
2 あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。
3 あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところはありません。
4 わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。
5 わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
6 わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。
7 わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。
8 わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
9 主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。
10 わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
11 わが友、わがともがらは/わたしの災を見て離れて立ち、わが親族もまた遠く離れて立っています。
12 わたしのいのちを求める者はわなを設け、わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、ひねもす欺くことをはかるのです。
13 しかしわたしは耳のきこえない人のように聞かず、口のきけない人のように話しません。
14 まことに、わたしは聞かない人のごとく、議論を口にしない人のようです。
15 しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそわたしに答えられるのです。
16 わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、わたしにむかって高ぶる彼らに/わたしのことによって喜ぶことを/ゆるさないでください」と。
17 わたしは倒れるばかりになり、わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。
18 わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます。
19 ゆえなく、わたしに敵する者は強く、偽ってわたしを憎む者は多いのです。
20 悪をもって善に報いる者は、わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。
21 主よ、わたしを捨てないでください。わが神よ、わたしに遠ざからないでください。
22 主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください。
真なる神を知ろうとするとき、またその神が啓示している救いを求めるとき、「神の怒り」というテーマに向き合わずにいることはできない。詩篇記者であるダビデ王も、「あなたの憤り」「激しい怒り」「あなたの怒り」という表現を使って、その現実に向き合っていた。勿論、聖書はその「神の怒り、憤り」が人間のうちに見られるような感情的な顕れとは異なることを啓示している。
ヤコブ1:20
人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
神の怒りとは、人間の不義や罪に対する神の絶対的な正義や神聖さの啓示である。その啓示は抽象的な概念の提示よりもはるかにアクティブで、聖霊を通して受け取り側に強く働きかけるようなものであることは、「私を責める」「私を懲らす」「私に突き刺さる」「私の上にくだる」というダビデの表現からも理解できる。
勿論、これらの強烈な表現から、神の正義の啓示に対して反抗心を抱き、「神の怒り=愛の欠如」と考えるのは間違っている。もしダビデが「神の怒り=愛の欠如」と考えていたら、何度も「主よ」と祈り求めることはできず、むしろ神の峻厳さに反抗していただろう。
罪や不義に光を当てることが不当なのではなく、問題は私たちの罪や不義そのものだからである。それは3節にも示されている。
3
あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、
わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところはありません。
「あなたの怒りーわたしの肉」「わたしの罪ーわたしの骨」という関係がとても興味深い。つまり神の正義と神聖さの啓示によって、ダビデは自分の罪深さを悟らされていたが、それは自分自身の存在の核に「健やかなところがない」からであって、神の怒りがダビデの罪を増幅させていた、という意味ではない。
電気を止められ、窓を閉めきったゴミ屋敷に入り、すべての窓を開けることが家の中のゴミを増やすのではない。窓から差し込む太陽の光は、ゴミに埋もれた家の中の実態に見えるようにしているだけである。
しかし私たちの性質は、憤った神が窓を開け、外から火を投げ込んで家ごと燃やしてしまおうとしている、と考えがちである。実際には、主なる神は「ゴミ屋敷のゴミ」と「ゴミ屋敷の中に埋もれて生きている住人」とを識別してみておられる。
以下の聖句によっても理解できる。
ローマ1:18
神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
新改訳
不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して
塚本訳
神の怒りが彼らのあらゆる不信と不道徳とに対して
「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間に対して、天から啓示される」とは書いていないのである。勿論、もし人間が頑なに神の真理の働きを阻み続け、それを最後まで続けた場合には、その人間自身の選択によって、永遠の裁きを受けることになる。
コロサイ3:1-8
1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。
7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
「これらのことをして」いたから、それを続けるなら「これらのことのために」神の怒りが下るとあるが、それと同時に「これらいっさいのことを捨て」ることは命じられているのは、イエス・キリストの十字架の働きによって捨てることが可能であるという、絶大な恵みの前提があるからである。
Ⅰヨハネ1:5-10
5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
2:1-2
1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。