an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

主なる神が「偽りを信じるように迷わす力を送る」時がやがて来る

Ⅱテサロニケ2:9-12

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、

12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。

 神の甚大な恵みと慈愛によって救いを受け、日々支えられている存在として、私が神の恵みについて証しするとき、誇張し過ぎることは決してないだろう。実際、それはまるで預言者エゼキエルが見た、神殿から溢れ出る泉のようで、いつの間にか川となり、泳いで渡ることすらできないほど深く、その流れは力強い。

 その恵みの深遠さを考えれば、私はまだ浅瀬でちゃぷちゃぷと水遊びをしている子供のような存在なのかもしれない。11節を読んでいまだにその峻厳さにある種の「気まずさ」を感じるのは、御子イエス・キリストが払ってくださった恵みの代価に関して理解がまだまだ浅く、その恵みを踏みにじる選択に対する神の正当な怒りが大患難期において下るべきことに実感が伴っていないからだろう。

 11節の「偽りを信じるように、迷わす力を世に送る」の主語は、間違いなく「神」である。信じる者が救われるために、神の力としての「十字架につけられたキリスト」を与え、真理の御霊を遣わしてくださった方自身が、「偽りを信じるように迷わす力を送る」とは、何という啓示だろうか。

Ⅰコリント1:21-24

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

ヨハネ14:16-17

16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 

 信仰者は「誰も傷つけないため」に、この部分をスルーすべきだろうか。あるいはギリシャ語の蘊蓄で「もう少し受け入れやすくソフトなメッセージ」にすべきか。

 使徒パウロは「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」(ローマ5:10)と書いたが、敵に対してさえ和解のための手を差し出す方を拒絶し、神の敵としての立場を自ら選ぶことが一体何をもたらすか、信仰者にはそれを誤魔化したり、覆いを被せたりする権利はない。

へブル10:28-31

28 モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、

29 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。

30 「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。

31 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。

 今この瞬間の「恵み」が、不可逆的に「裁き」と変わる時が確かにくる。だから救いの手が差し伸べられている「今日」そして「今」、その救いを探し求めてほしい。

イザヤ55:6-7

6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

7 悪しき者はその道を捨て、正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。