an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」(2)

Ⅰコリント6:1-11

1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。

2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。

6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。

7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。

8 しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

 「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで」

 「あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。」

 「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。」

 「そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。」

 これらの言葉は、地域教会の兄弟姉妹の間で争いや問題が起きたら、問題を見て見ぬふりしたり、教会の外の解決策を求めるのではなく、まず何よりもその地域教会の交わりの中で解決すべきであること、また主イエス・キリストの名によって、また神の霊によってそれが十分に可能であるという前提で使徒パウロが書いていることが理解できる。

 この箇所で解決の対処のプロセスに使われている動詞、「(聖徒に)訴える」「裁く」は、いずれも原語【κρίνω krinō】であり、【正確に区別する、決定する、判決を下す、非難する、罰する、結論を下す、考える、など】という広範囲の意味をもつ単語である。

 また「仲裁する」と和訳されている原語は【διακρίνω diakrinō】で、【徹底的に区別する、識別する、試す、決定する、など】の意味をもつ。

 「敢えて不義を受け入れる」「敢えて騙される」という行動も、その行動をする側が自分の方が正しく相手が間違っているのを確信しながらも、より高い目的のために不当な扱いを受け入れることだから、「識別する」「区別する」という行為が前提にあるのである。

 つまり地域教会の中で問題を解決するプロセスには、問題の性質を見極め、善と悪に分離する行為が不可欠なのである。これは御子自身の言葉や使徒パウロの言葉でも確認できることである。

ルカ12:57

また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。

ヨハネ7:24

「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。

Ⅰコリント5:12

外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。

 しかし実に多くの場合、マタイ7:1の「人をさばくな。自分がさばかれないためである」の一節だけが文脈から切り離されて引用され、目の前にある問題に光を当て、それを識別することまで「悪」と見なされる傾向がある。

 しかしその文脈を読めば、それとは全く反対のことが主張されていることが理解できるのである。主が使ったシンボリズムに基づいていうなら、主は決して「兄弟の目に塵があることを指摘するな。あなたも同じ罪人なのだから、お互い目の塵について語るのはやめ、そのままにしておきなさい。愛し合いましょう」とは言っていないのである。むしろ「あなたの目にある梁をまず認め、そしてそれを取ってよく目が見えるようになったら、兄弟の目から塵を取ることができるであろう」と言っているのである。

マタイ7:1-5

1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。

2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。

3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。

5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

 この基準は、マタイ18章の教会の交わりに関する教えとも一致する。 

マタイ18:15-17

15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。

17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。 

 まず最初は罪を犯した兄弟と二人だけで責任の所在を明らかにし、それを認めない場合は、二人もしくは三人の証人の立ち合いの下で全てが確認され、それでも解決しなければ地域教会全体で問題に光を当てる、というのが、御子が教会に対して定めたプロセスである。この三段階はすべて、地域教会の中で行うよう命じられているのは明らかである。

 御子イエスは、「私の体であり、花嫁である教会は聖なるものだから、争いや問題など決してない」とも「もし万が一、イザコザが起きても、教会の平和が乱れるから、むやみに追及したりしないように」とも「私の顔に泥を塗ることになるから、外にもち出さないように注意しなさい」とも言っていない。

 むしろ「あなたたちに聖霊を通して授けた知恵によって、教会の交わりの中で一緒に解決するように努めなさい。それでもだめなら問題の人を交わりから断ち、『外の人』として扱いなさい」と言っているのである。

 「外の人たちを義によって裁く」神は、全知全能であり、完全に公正であり、唯一のさばき主である。「外の人たちを裁く」ように、わざわざ人間に介入させなくても、ご自分一人で完璧に「内なる人たち」つまり「教会の兄弟姉妹」をさばくことができる方である。しかしそのような方が、問題に対して向き合うことを「内なる人たち」に委ねていることは、途轍もなく意味深いことではないだろうか。

 

(3)へ続く

 

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