an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」(4)

Ⅰテモテ5:17-21

17 よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。

18 聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。

19 長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。

20 罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。

21 わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない。

 この教えの中には「長老」とあるが、基本的に「監督」「牧師」「指導者」「リーダー」などの呼称と同じ意味をもつ立場として考えることができる。要するに地域教会において、そのグループの霊的状態に対して「神に言い開きをすべき者」「魂に対して目を覚まして見張っている者」としての適性をもつとして判断され、選ばれた者を指す。

へブル13:17

あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。 

Ⅰテモテ3:1-7

1 「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。

2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、

3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、

4 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。

5 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。

6 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。

7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。 

テトス1:6-9

6 長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。

7 監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、

8 かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、

9 教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。

 冒頭の聖句は、この「長老」「牧師」「監督」「指導者」「リーダー」に対する然るべき対応を三つのタイプに分類して教えている。(簡略にするため、今回は「牧師」の呼称だけを使う)

  1. 良い指導をしている場合、特に宣教と教とのために労している場合:その牧師は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい。
  2. 誰かが牧師に対して批判・非難を訴えている場合:二人か三人の証人がない場合には、受理してはならない。
  3. 牧師が罪を犯した場合:他の人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。

 1の場合、地域教会は十分な御言葉の糧によって育てられ、神に対する畏敬の念と御言葉の知恵と聖霊による喜びが兄弟姉妹の交わりを治めるので、ごく自然に指導者に従い、その教師が宣教と教えに集中できるように出来得る限り努力を惜しまないものである。

 しかしどのような健全な教会においても、2の場合のように、指導者に対する批判・非難は必ず存在する。ある意味、地域教会を代表する存在として、また人前に立ち真理を教える立場として、それは避けられない現実である。しかしその現実は、それらすべての批判・非難を受理することを意味しない。それらの訴えが、真実に基づくかどうか確かめられなければいけないのである。使徒パウロがここで「受理してはならない」と命令したのは、エペソ教会をサポートするために遣わされていたテモテに対してだが、地域教会の兄弟姉妹の一人一人にも適用することができるだろう。つまり、ある教会の会員である貴方は、貴方の教会の牧師に対する訴えを、二人か三人の証人がいない場合、受け入れてはいけないし、聞いた訴えの言葉を確かめないまま第三者に伝えてはならない、という意味である。

 また大事な点は、「二人か三人の証人」であって、「二人か三人の同調者」ではないことである。なぜならただ人間的な党派心などで、根拠もない訴えに同調する者も必ず出てくるからである。公に真実を証言する責任を負わない者は「証人」とは呼べないだろう。

 この教えはモーセの律法を根拠としてもつもので、御子イエスも教会の教えの中で適用しているものである。

申命記19:15-20

15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。

16 もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、

17 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。

18 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、

19 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。

20 そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。 

マタイ18:15-16

15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。 

 地域教会においては勿論だが、インターネット上のサイトやブログ、掲示板、SNSなどでも十分に注意しなければならない。匿名で教会や牧師を批判・非難する記事やコメントを目にした場合、事実を確認することなく拡散することは、悪に加担することになる可能性があることを私たちは肝に銘じておくべきだろう。

 3の場合、それは実に痛々しいプロセスだと思うが、外科手術のように教会の健全化に必要なものだと思う。この聖書の教えを守った結果、義なる神に対する畏敬の念が教会に満ち、祝福されたケースは少なくない。ただこの聖句を悪利用し、指導者に対する根拠のない訴えを会衆の前で「ぶちまける」ケースも残念ながらある。その場合、会衆は2の教えを基に判断し、必要にならば3の教えを適用し、偽りの訴えをする者を公に咎めることになる。

その証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。