an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「決断主義」に関する有益な記事

 「決断主義(decisionism)」に関する非常に重要だと思える記事を読んだので紹介してみたい。

 特に心を打った箇所を以下引用する。

19世紀の最も偉大な神学者のひとりであるロバート・ダブニーは、キリストへの決断のためにカウンセリングを受けた人々が抱く幻滅感について非常に鋭く観察しました。彼は次のように言っています。

カウンセリングを受けた人々のうちのある者たちは、彼らが困惑している時に、教会の牧師やクリスチャンの友人によって意に反した立場に置かれ、果たすことのできない奉仕をあてがわれ、それまでは恥ずかしがって拒んでいた敬虔な信仰告白をするよう押し付けられたので、人の未熟さに乗じてひどいことをされたと感じています。

それゆえ、彼らの自尊心は深く傷つけられ、彼らのプライドは屈辱的なことをさせられたことに憤慨しています。彼らが今後、キリスト教とその支持者を怒りと疑いの感情をもって見るようになっても不思議ではありません。

しばしば彼らの感情はここで止まりません。彼らは、カウンセリングを受けた当時の彼らの宗教的な不安と決断がまったく真剣なものであり、その時は不思議で深遠なものを感じたのを意識しています。けれども、その後の屈辱的な苦い経験によって、彼らは「自分の新生と自分が経験した宗教は少なくとも妄想であった」と学びます。自分に関してだけではなく、他の人々のそれらもまた妄想であるとの結論を下すのは当然の事でしょう。彼らは言います。

「私と熱心なクリスチャンたちの唯一の違いは、彼らはごまかしにまだ気づいていないという点だけだ。クリスチャンたちはまだ私のように気づいていない。私が決断の真実性と自分の信実さに確信がなかったのと同様に、クリスチャンたちも今、彼らの決断の真実性と信実さについての確信がないはずである。さらに、私は自分の魂に何の変化もなかったのを知っている。私は彼らの魂に変化があったとは信じられない。」

多くの人々がそのような致命的な思考過程を通って来きました。その結果として、偽の宗教的興奮によってつくられた不信者(名ばかりのクリスチャン)がそこら中に蒔かれました。「クリスチャンは今“銀の靴を履いて歩いている”」との理由から※、彼らの大部分はキリスト教に対する敵意を自分の胸にしまい込んでいるかもしれませんが、彼らは救いの真理に対して心が頑なになっています。(ロバート・L・ダブニー「Discussions:Evangelical and Teological,Vol.2」p.13より)

 

(※訳者注:“銀の靴を履いて歩いている”とは、物語「オズの魔法使い」で主人公の少女ドロシーが魔法の銀の靴を履いて歩いていたのを指して言っていると思われます。この箇所では、「ドロシーはオズの魔法使いの正体が詐欺師であることに気づいていなかったのと同じように、クリスチャンはキリスト教がだましであることに気がついていないのだから、キリスト教のことは相手にしないで放っておこう」のような意味で使われているか、あるいは「“キリストへの決断”をしてとりあえず天国に行ける“魔法の銀の靴”を得たので、キリスト教に対する敵意は心の奥にそっとしまい込んでおく」の意味で使われているのではないかと思います。)

ダブニー氏はこれらの言葉を今から100年前、すなわち高度に組織化された宣教運動や“大衆伝道”の時代よりもずっと前に書きました。100年前に「偽の宗教的興奮によってつくられた不信者(名ばかりのクリスチャン)がそこら中に蒔かれ」ていたのなら、現在の状況はどうなのでしょうか? これはすべてのクリスチャンが真剣に考えるべき質問です。たとえそれが誠意を持ったものであったにせよ、人々を間違った希望へと導くなら、人々を導いた者には、全能の神の御前に立つ時におそろしい裁きが宣告されるでしょう。

 私の幼少の頃から大学時代までのすべての礼拝で“講壇からの招き”は行われていました。実際、私は“講壇からの招き”を採用しない伝道的なクリスチャンが存在することを知らずに育ちました。この時代の多くの礼拝では、私の思いがキリストの栄光と彼の十字架での苦しみに集中していたところ、(“講壇からの招き”によって)突然、礼拝の焦点がキリストの栄光と苦しみから「通路を歩くこと」へと変わってしまうのに気づきました。他の多くの人々も同じ経験を語りました。

・集会の終わりの“講壇からの招き”と巧みな呼びかけ
・講壇に向かって歩くかどうかを決断すること
・「何人の人が応答するだろうか?」と思いめぐらすこと

これらのことはキリストを求め、霊とまことによって神を礼拝することから人々の注意を逸らします。

私たちの主イエス・キリストが不人気な真理を語り始める前までは、群衆は彼らの足を使って肉体的にイエスについていったのを思い出してください。その後、群衆はイエスから離れ去りました(ヨハネ6:66)。なぜでしょう? 群衆は彼らの足を使ってイエスのところに来たのではないでしょうか? そのとおりです。しかし、このことは、救われるために必要な「キリストに来る」ことではありません。イエス・キリストは言われました。

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37)

イエスは再び言われました。

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6:44)

 

これら2つの言葉はいずれも、人が足を動かして肉体的にイエスのところに来ることを意味して語られませんでした。

人々が知るべきなのは次のことです。すなわち、「キリストのところに来る」とは、講壇に向かう通路を歩くことではないということです。「キリストのところに来る」とは、自らの罪を悔い改め、罪が赦されるためにキリストに信頼することを意味します。人々をキリストへと勝ち獲るために、どうか神が教会を聖書に書かれたとおりの方法に戻してくださいますように。私たちは罪人に集会中に講壇に向かって歩くよう呼びかけるのではなく、キリストに信頼するよう呼びかけなければなりません。

 ただ、5.決断による新生と神学②(決断による新生14)の冒頭の部分に挿入された神学者トマス・ボストンの説明に対しては合意できないものを感じたことを明記しておきたい。

 威厳のあるスコットランドの神学者トマス・ボストンは、生まれ変わっていない人と穴の中にいる人を比べることによって人間の霊的な状態をはっきりと説明しています。彼が穴から脱出するには二つのうちどちらかの方法しかありません。

①大変な努力と苦労によって穴をよじ登って脱出する。

これは行ないによる方法です。

②キリストが下ろしてくださった恵みのロープをしっかりと掴んで、悲惨な状態から脱出する。

 彼は福音のロープをつかんで穴から救われる決心をするかもしれません。これは決断による方法です。「ああ!しかし! 生まれ変わっていない人は穴の中で死んでいるので、これらどちらの方法によっても自分を救うことはできないのです。」

(トマス・ボストン著「Human Nature in Its Fourfold State」p.183より)

 

 人は罪過と罪の中に霊的に死んでおり、神を喜ばせることができません(エペソ2:1,ローマ8:8)。私たちの救い主ご自身が、人の状態は完全に無力であることを次の言葉によって描写しています。

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。(ヨハネ6:44)

父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。(ヨハネ6:65)

 そもそも、地上に生きる一人の人となり、罪びとの救いのために十字架の上で身代わりの命を捧げた御子イエスの救いのわざを、「井戸に落ちて死んでいる人が自力で掴むことはないことを知りながらも、井戸の上からロープを下して掴むのを待つ行為」に譬えるのは不合理だろう。御子イエスは「井戸の底」まで降り来てくださった、つまり罪びとが横たわっている位置まで降りてきてくださったのであり、霊的死という完全な無力に閉じ込められている魂に、復活の命にみちた言葉をかけ、信仰を与えてくださったのである。

エペソ2:1-6

1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、

2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。

3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、

5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――

6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

 「罪過によって死んでいた」、つまり生ける神から離れて罪による死の中で隔絶されていた私たちのところに、神は御子キリストは遣わしてくださり、その御子が十字架の上で死に復活したことにより、「御子と共に生かし」、「御子と共によみがえらせ」、「御子と共に天上で座につかせて」くださったのである。ここには、井戸のふちに寄りかかって、井戸の底の死人が垂らしたロープを掴むのただ呆然と待つイメージは皆無である。

 また「井戸の穴に落ちている者は死んでいるので、元々ロープを掴みことはできない」のなら、「なぜロープを掴んで救われようとしないのか」と責めることもできないはずである。もし私が私に対して垂らされたロープを掴もうとする意志も力も持っていない死人なら、ロープを掴まなかったことに責任はないはずである。

 しかし新約聖書は明らかに救いの福音を信じない人々の責任に関して言及している。

ヨハネ3:17-21

17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。

21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 

Ⅱテサロニケ2:9-12

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、

12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。 

 これらの言葉は、信じることと信じないことに個人の選択とその帰結が含まれていることを示している。

 個人の選択や決断を強調することの矛盾に関しては、以下の関連記事においても触れているが、やはりこのテーマにおいても教義的バランスを求めることが重要だと思う。

 

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