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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(52)ハガルでもケトラでもなく、サラから生まれた約束の子

 創世記25章には、アブラハムの子孫らの系図が啓示されている。

  • 正妻サラの後にアブラハムが娶った後妻ケトラから生まれた子孫(1-6節):6節によると、ケトラはあくまで「そばめ」と考えられていたようである。

1 アブラハムは再び妻をめとった。名をケトラという。

2 彼女はジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシバクおよびシュワを産んだ。

3 ヨクシャンの子はシバとデダン。デダンの子孫はアシュリびと、レトシびと、レウミびとである。

4 ミデアンの子孫はエパ、エペル、ヘノク、アビダ、エルダアであって、これらは皆ケトラの子孫であった。

5 アブラハムはその所有をことごとくイサクに与えた。

6 またそのそばめたちの子らにもアブラハムは物を与え、なお生きている間に彼らをその子イサクから離して、東の方、東の国に移らせた。  

  • エジプト出身のそばめハガルから生まれたイシマエルの子孫(12-18節)

12 サラのつかえめエジプトびとハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシマエルの系図は次のとおりである。

13 イシマエルの子らの名を世代にしたがって、その名をいえば次のとおりである。すなわちイシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、

14 ミシマ、ドマ、マッサ、

15 ハダデ、テマ、エトル、ネフシ、ケデマ。

16 これはイシマエルの子らであり、村と宿営とによる名であって、その氏族による十二人の君たちである。

17 イシマエルのよわいは百三十七年である。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。

18 イシマエルの子らはハビラからエジプトの東、シュルまでの間に住んで、アシュルに及んだ。イシマエルはすべての兄弟の東に住んだ。 

  •  正妻サラによって生まれたイサクの子孫(19-26節)

19 アブラハムの子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムの子はイサクであって、

20 イサクは四十歳の時、パダンアラムのアラムびとベトエルの娘で、アラムびとラバンの妹リベカを妻にめとった。

21 イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。

22 ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。

23 主は彼女に言われた、「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」。

24 彼女の出産の日がきたとき、胎内にはふたごがあった。

25 さきに出たのは赤くて全身毛ごろものようであった。それで名をエサウと名づけた。

26 その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。リベカが彼らを産んだ時、イサクは六十歳であった。  

 この章の啓示を基に、アブラハムの年齢にしたがって、アブラハムの子孫の誕生を時系列に整理すると、興味深い事実が明確になる。

  1. エジプトのそばめハガルから生まれたイシマエル(アブラハムが86歳の時)
  2. 正妻サラから生まれたイサク(アブラハムが100歳の時)
  3. サラの死後、娶ったケトラから生まれたジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシバク、シュワ(正妻サラが死んだとき、アブラハムは137歳だったから、少なくともそれ以降、175歳までの38年間に6人もの子孫を残したことになる。)

 サラの死後、アブラハムに後妻ケトラから6人もの子らが与えられたことを考えると、約束の子イサクの母は、子供を産めない体であったサラでなければならなかった、その神の特別な計画が理解できるのである。人間の計略によって生まれたイシマエルのようでも、老齢期においてはある意味奇蹟的であるとはいえ、自然に与えられた6人の子らのようでもなく、人間的にはどう考えてもあり得ない状況において神の約束に従ってイサクが生まれたことでこそ、万物を無から創造した神の力が顕れたのである。そう、「約束の子」は、ハガルからでもケトラからでもなく、不妊の妻サラから生まれてこなければならなかったのである。

ローマ4:17-21

17 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。

18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。

19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。

20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、

21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。 

  このように考えると、私達の信仰の対象であるイエス・キリストが、処女マリヤから聖霊によって生まれたことや、十字架の死の後に復活したという啓示が求める信仰は、揺るがない必然性を持っていると言えないだろうか。