時々、時間を見つけて辞書を「読む」のだが、毎回実に様々な発見がある。特にイタリアで永いこと滞在しているので、日本語に関しては、意識してアプローチしないといけないと思っている。
今日、広辞苑を読んでいて実に面白い言葉を見つけた。
躑躅
【てきちょく】足踏みすること。ためらうこと。ちゅうちょ。
彳亍
【てきちょく】(「彳」は左歩、「亍」は右歩) たたずむこと。また、少し行くこと。
二つの単語は同じ発音だが、漢字の複雑さにおいて対極をなしている。そしてその意味の違いは、「微妙な一歩」である。そして「彳亍」には心理的なとまどいのニュアンスがない。
これは現実の私達の心理をシンボリックに顕しているのではないだろうか。何かが原因で前に進むことをためらい、足踏みするようなときがある。心は騒ぎ、複雑な問題に押し潰され、身動きとれない状態になる時がある。そのような時、心から主なる神に祈り、信仰によって「一歩」踏み出すと、悩んでいた多くの問題がいつの間にか消え去り、意外なほどシンプルな道が目の前に開かれるのである。
ちょうど荒野をエジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルが四十年間荒野を彷徨った後、約束の地に入るにあたって、彼らの行く手を阻んでいたヨルダン川に契約の箱を担いでいた祭司達が一歩踏み出した瞬間、二つに分かれたように。
ヨシュア3:9-17
9 ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたはここに近づいて、あなたがたの神、主の言葉を聞きなさい」。
10 そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。
11 ごらんなさい。全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。
12 それゆえ、今、イスラエルの部族のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選びなさい。
13 全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」。
14 こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが、
15 箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、――
16 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。
17 すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終った。
必要なのは合理的な説明ではない。主なる神に対する幼子のようなシンプルな信仰である。「たたずみ」、主の言葉を聞き、それに従って「少し前へ行く」信仰が、である。
ヨハネ11:37-45
37 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。
38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。
39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。