an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(37)ぎょりゅうの木の「向こう」

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創世記21:22-34

22 そのころアビメレクとその軍勢の長ピコルはアブラハムに言った、「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる。

23 それゆえ、今ここでわたしをも、わたしの子をも、孫をも欺かないと、神をさしてわたしに誓ってください。わたしがあなたに親切にしたように、あなたもわたしと、このあなたの寄留の地とに、しなければなりません」。

24 アブラハムは言った、「わたしは誓います」。

25 アブラハムはアビメレクの家来たちが、水の井戸を奪い取ったことについてアビメルクを責めた。

26 しかしアビメレクは言った、「だれがこの事をしたかわたしは知りません。あなたもわたしに告げたことはなく、わたしもきょうまで聞きませんでした」。

27 そこでアブラハムは羊と牛とを取ってアビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。

28 アブラハムが雌の小羊七頭を分けて置いたところ、

29 アビメレクはアブラハムに言った、「あなたがこれらの雌の小羊七頭を分けて置いたのは、なんのためですか」。

30 アブラハムは言った、「あなたはわたしの手からこれらの雌の小羊七頭を受け取って、わたしがこの井戸を掘ったことの証拠としてください」。

31 これによってその所をベエルシバと名づけた。彼らがふたりそこで誓いをしたからである。

32 このように彼らはベエルシバで契約を結び、アビメレクとその軍勢の長ピコルは立ってペリシテの地に帰った。

33 アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。

34 こうしてアブラハムは長い間ペリシテびとの地にとどまった。 

 ペリシテびとの地における信仰者アブラハムの証しは、暗闇に輝く光のように明らかであった。妻サラのことでアブラハムの過ちを戒めたゲラルの王アビメレク(創世記20:9)さえも、「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる」と言って、神の臨在と加護がアブラハムと共にあることを認めざるを負えなかった程であった。

 見えない力に支えられているアブラハムに対して畏れを抱いたアビメレクは、アブラハムと和平協定を結んでおいた方が得策だと判断し、アブラハムに神をさして誓わせようとした。ここでアブラハムがすかさず、アビメレクの家来たちが水の井戸を奪い取ったことについて、アビメルクを責めたのは興味深い。

 そしてアブラハムは、井戸の所有権に関する将来の争いの種を絶つため、証拠として雌の小羊七頭を与え、その場所を「ベエルシバ」と名付け、 契約のしるしとして一本の「ぎょりゅうの木」を植樹し、その木の下で全てを公平の裁く義の神に祈りを捧げたのである。

 興味深い点は、アブラハムの誓約に対する念の入れようである。わざわざ子羊を七頭をアビメレクに与えたのは、同じ語根をもつ二つの言葉「誓う shâba‛」「七 sheba‛」を使い、七頭の子羊と交わされた契約を結び付け、さらに「ベエルシバ」という地名にすることで契約を公のものとしようとしたのである。

 こうしてアブラハムは、神に与えられた土地で平和に暮らしていく環境を持つようになる。アビメレク王との煩いから解放され、しかも家庭内における葛藤の原因だったアガルとイシマエルももういない。愛する唯一の跡継ぎイサクはすくすく成長している。アブラハムは余生をペリシテ人の土地に安泰に暮らしていける全てをもっていた。

 しかし主なる神のアブラハムに関する計画は、地上における安泰な生活にとどまらなかった。アブラハムもそれに気付いていた。実際、彼は約束の地で神からの力を誇示して自分の王国を築こうと思えばできただろう。しかし彼は、あくまで一人の「寄留者」として過ごしたのである。新約聖書にもそのことが啓示されている。

へブル11:8-10

8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

9 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。

10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 

 もし神がアブラハムに地上における祝福だけを与えようと考えていたら、アビメレク王との和平協定の後に、「愛する唯一の跡継ぎイサクを捧げよ」という、親の心を引き裂くような命令をアブラハムに下さなかっただろう。神が御自身の友に与えようと用意していたものは、地上の祝福よりもはるかに深遠なものだったからである。そう、ぎょりゅうの木の「向こう」には、モリヤ山上の祭壇の薪が、さらにはゴルゴタの丘の荒削りの十字架が備えられていたのである。

 そして御子イエス・キリストが地上に来られたのも、信じる者の地上における人生を何の問題もない、安泰で繁栄に満ちたものにするという物質的な目的ではなく、御子イエスを経験によって知り、彼との深い交わりを日々実現するという深遠な目的をもっていたのである。

ピリピ3:8-14

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、

11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、

14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。