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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(1)

 新年あけましておめでとうございます。

ルカ24:5-7

5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。

6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。

7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。 

ルカ24:25-27

25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

ルカ24:30-32

30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、

31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。

32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

  この新年のはじめの時期は、ルカによる福音書の24章に従って、「モーセやすべての預言者からはじめて」、旧約聖書に啓示されているキリストについて一つ一つ調べ、「生きた方」を探し求め、より深く知るという目的で、聖書研究を共有したい。

 今の複雑で困難な時期には、私達は思わず驚き、恐れ、顔を伏せ、心がふさぎ込んでしまうようなことが次々と起きている。女たちのように捜すべき場所を間違え、エマオへの道を歩いていた弟子達のように、失望によって判断力を失い、心が鈍くなって、行くべき方向を見失うことも十分あり得る。

 しかしそのような私達を生ける主イエス・キリストは決して見捨てず、御言葉によって語りかけ、聖書を通して御自身を解き明かすことによって私達の心を内側から奮い立たせ、そこに聖霊の命の火を燃やしてくださるのである。

 聖書研究はシリーズでじっくり取り組むつもりである。また途中で関係ないテーマの記事を書く必要がでてくると思うが、できるだけこのテーマを優先して進めようと思う。

 

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