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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

背が低くても、曲がった腕でも

新年あけましておめでとうございます。

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ピリピ2:12-16

12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。

15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。 

 「いのちのことばをしっかり握って」 の「しっかり握って」と訳されている原語は、「高く上げる」とも訳することができる。実際、イタリア語訳では一般的に読まれている四つのバージョン(Diodati, Riveduta, Nuova Riveduta, CEI)とも、そのような意味で訳されている。曲がった邪悪な世代の闇の中で、命の言葉の光がより遠くまで届くように高く持ち上げているイメージである。勿論、何かを高く持ち上げるためには、それを落とさないようにしっかり握っている必要がある。「闇の力」が攻めてきて、命の言葉を奪い取ることが無いよう、しっかり握りしめていなければならない。

 しかし私達は他人と比較したり、周りの反応を気にして、「自分の持っている命の言葉の光が望んでいる程高く持ち上げられていない」「光がそれほど周りを照らしていない」と落胆しているかもしれない。私達は、ひどく暗く、じめじめした、低い場所にいるかもしれない。周りの人よりも随分「背が低く」、「手足は短く、曲がっていて」、「不格好」かもしれない。あるいは、あまりの重荷で「背が曲がって」しまっているかもしれない。それでもいいではないか。私達が神から与えられている務めは、それぞれが置かれた場所に自分の足で立ち、命の言葉をしっかり握り、「精一杯自分の腕を上にあげること」である。