an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。

ヤコブ4:1-5

1 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。

2 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。

3 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

5 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

  この手紙の執筆者ヤコブは、イエス・キリストの実弟で、使徒時代のエルサレム教会の指導者の一人であった。そのヤコブが、全地に離散している十二支族に属する人々で、イエス・キリストを信じたユダヤ人クリスチャンに対して書いた手紙である事が、手紙の冒頭に明記されている。

ヤコブ1:1

神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。

  「わたしの兄弟たちよ」「愛する兄弟たちよ」「あなたがた」という表現で判る通り、この歯に衣着せぬ内容は、神の事を信じない人々が対象ではなく、信仰者、しかも元々イスラエルの神を礼拝していなかった異邦人の信仰者ではなく、旧約聖書にも慣れ親しんでいたユダヤ人クリスチャン、つまりヤコブ自身と最も類似性をもつ信仰者が対象であった。

 ヤコブはそのユダヤ人クリスチャンに対して、冒頭に引用したように、信仰者の間に起こり得るあらゆる戦いや争いに対する徹底した断罪を啓示している。さらに彼は、信仰者の心の中に実際に巣食う「あらゆる戦いと争いの根源」について、容赦なく光を当てているのである。そこには、欲情、貪り、隠れた快楽の追求、不貞、ねたみ、敵対心、感情・思考レベルにおける殺人などが、あぶりだされている。

 これは、イエス・キリストが語った言葉や、使徒パウロが旧約聖書の聖句を引用して表現した人間観に共通するものである。

マルコ7:20-23

20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。

21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、

22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。

23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。 

ローマ3:10-18

10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。

11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。

13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。

15 彼らの足は、血を流すのに速く、

16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

17 そして、彼らは平和の道を知らない。

18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 

 キリストの愛の福音が世界に伝えられ、信仰者が救われ、教会が生まれてから現在に至るまで、国家間レベルだけでなく、個人レベルでも、戦争や争いがこの世から無くなった時代は存在しない。しかし真の問題は、非常に多くの戦争や争いが「神の名」によって行われてきたことであり、人類の救いのために自らの命を捧げたキリストの「栄光のために」という偽善的大義や、「神の義を守るため」という自己正当化によって、血が流され、暴力や争いが容認されてきたことである。

 しかし人間の心を量り知る神を畏れる者は、自己の中に隠れている貪りや敵対心、自己愛を正当化することを恐れる。弟を殺したカインのエピソードを知っている者は、嫉妬や憎しみを神の愛と真理によって治めなければ、宗教という衣の中で増殖してしまうことを知っている。そして何よりも、たとい自ら「クリスチャン」「信仰者」と名乗ったとしても、これらの肉の働きをするものは、神の国を相続することが決してできないという聖書の厳格な真理を信じ、神を畏れているのである。

ガラテヤ5:19-21

19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、

20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、

21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 

 そこには、ユダヤ人信仰者や異邦人信仰者という違いはなく、文化的・環境的違いもなく、どの教派・教会に属しているかも全く関係ない。問題は、神の聖霊が心の中に宿り、その霊に導かれ、造り変えられ、その愛によって治められているかどうかである。

ヤコブ3:13-16

13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。

14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。

15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。

16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。

ガラテヤ5:22-26

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、

23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。

26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

 「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」という言葉は、決して虚しい言葉ではない。