ヨハネ5:35-47
35 ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。
36 しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。
37 また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。
38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。
45 わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。
これらのイエスの言葉を聞いていた人々は、イエスが安息日を破っている、自分を神と等しくしている、という理由でイエスを殺そうとしていたユダヤ人達であった。
ヨハネ5:18
このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。
彼らはユダヤ人としてヘブライ語で書かれた旧約聖書に精通し、神の言葉として厳密に調べ、その中に永遠の命があると信じて、誰よりも熱心にその書いてある内容を尊守しているという自負心があった。それだけでなく、洗礼者ヨハネの燃えて輝く光のような証しを見聞きし、「しばらくの間その光を喜び楽しもう」とさえした。
しかし彼らに決定的に欠けていたものがあった。それは、彼らが誇りとしていた聖書の中で証しされていたメシアが、一人の人となって彼らの目の前にいる、という紛れもない事実を受け入れる遜った心であった。
使徒時代にはグノーシス主義の教えの種が教会に入り込んでいた。霊的奥義としてのキリストとその教えだけを認め、そのキリストが肉体を持って時間の中に介入し、地上で罪びとの中で過ごし、十字架の上で贖罪の死を背負い、そして復活した、という事実から目を背けていた。
Ⅰヨハネ4:1-3
1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
2 あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
3 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。
現代においても、キリストなしの宗教統一、キリストなしのキリスト教、キリストなしの繫栄、キリストなしの聖書解釈(特にヘブライ語聖書の原語解釈を強調する人々の間で多くみられるので注意が必要である)などに、反キリストの霊が顕れている。反キリストの霊は、「キリストについて」は語るが、自分がそれであることと信じさせるために、肉体をもって十字架の死のわざを成し遂げ、復活した唯一のイエス・キリストから様々な手段を使って人々の目を逸らそうとする。
しかし冒頭の聖句が啓示しているように、父なる神は御子イエスについて証しし、聖霊の霊感によって書かれた聖書も御子イエスを証しし、そしてモーセや洗礼者ヨハネのように神に遣わされた僕も御子イエスについて証しをした。
だから同じ聖霊に導かれる者は、こう宣言し、実行する。
Ⅰコリント1:23,24
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
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