an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「アラビアにあるシナイ山」「今のエルサレム」そして「上のエルサレム」

ガラテヤ4:21-31

21 律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。

22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。

24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。

25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。

26 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。

27 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」

28 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

29 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

30 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。

 『ガラテヤびとへの手紙』の3章と4章、いや、手紙全体を通して、使徒パウロは二つのカテゴリー、つまり「律法の下にいる者」と「恵みの下にいる者」、「肉にある者」と「御霊にある者」、という対立について書き記されており、手紙の受け取り人であったガラテヤの信徒たちがユダヤ人偽教師たちの教えに惑わされているのに対して、「あなたがたはどちらに属しているべきか」と問いかけている。

 そして冒頭の聖句において、その対立を創世記に記述されている二人の女性サラとハガルの例を引き合いに出し、そのシンボリズムについて解説している。

 以下の表は、その対立を表にまとめたものである。

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 「女奴隷ハガル」と、「律法の下にある者」つまり「霊的奴隷」を比喩的に結び付けるために、モーセが十戒を受け取った場所として「アラビアのシナイ山」を引き合いに出している。

 この「このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで」という箇所は様々な解釈があるが、以下はその数例である。

(黒崎註解)

註解:パウロは21節以来種々の事実および思想を二つに分ちてこれを対立せしめ、以て律法と福音の区別を明らかにしている。すなわち自由なるサラと奴隷なるハガル、世嗣なるイサクと放逐せらるるイシマエル、律法による旧き契約と恩恵による新しき契約、奴隷たる子を生むハガルと約束の子を生むサラ、律法を与えられたるシナイ山およびこれを継承している今のエルサレムと約束を実現すべき上なるエルサレム等々であり、この対比はなお31節まで継続している。本節の意味は改訳に従えばハガルは奴隷たる子を生み、その子孫はアラビヤ人となった点において、人を奴隷たらしむる律法を与えられしシナイ山に相当し、かつ今のエルサレムに相当する。その故はイスラエルの人々は今も律法の下に(かつローマの政府に、B1)奴隷となりエルサレムがその代表的中心であるからである。ただし本節は「このハガル〔なる語〕はアラビヤ〔語〕にてシナイ山を意味し云々」と読み、アラビヤ人がシナイ山をやや類似の発音Hadschar(Chadschar)にて呼ぶ事実をもって証明せんとし(M0、A1)、または「ハガル」なる文字なき異本によりて「そはこのシナイ山はアラビヤにありて今のエルサレムに当り云々」と読むべしとの説を為す学者がある(Z0)。この読み方が最良であろう。

(マッカーサー)

ハガルはその息子イシュマエルを通して、その子孫がその地方に住みついたことによってシナイ山とつながっている。

 実際、聖書にはそのような解釈を許すような記述がある。

創世記25:12-18

12 これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。 

13 すなわちイシュマエルの子の名は、その生まれた順の名によれば、イシュマエルの長子ネバヨテ、ケダル、アデベエル、ミブサム、 

14 ミシュマ、ドマ、マサ、 

15 ハダデ、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。

16 これらがイシュマエルの子孫で、それらは彼らの村落と宿営につけられた名であって、十二人の、それぞれの氏族の長である。 

17 以上はイシュマエルの生涯で、百三十七年であった。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。 

18 イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。 

 18節の「ハビラ」はアラビア半島の北西部,あるいはアラビア半島全域を示していたと言われているので、シナイ半島とアラビア半島を含めた広域にあたることになる。

 また聖書には「ハガル人」という名の部族に関する記述もある(詩篇83:6;歴上5:10;19-20)。

 いずれにせよ、注目すべきは、使徒パウロが「このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります」として、「シナイ山」と「今のエルサレム」つまり「地上の都エルサレム」と霊的に同類と見なし、さらにその二つの場所を、「上にあるエルサレム」と対比していることである。使徒パウロは地上的・物質的な観点によって「アラビアのシナイ山」と「今のエルサレム」を比較して、「今のエルサレム」の優越性について語っているのではないのである(パウロがこの書簡を書き送った時代は、まだエルサレムの神殿があり、そこでも神殿礼拝が行われていた)。

  それ故、この聖句が強調している点は、シナイ山の物理的位置ではなく、その「母体」としての霊的意味であり、キリストの贖いによって信じる者に与えられた霊的自由との絶対的なコントラストである。

「約束の地」と「神の山」

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創世記15:18

その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。 

民数記34:1-5

1 主はモーセに言われた、 

2 「イスラエルの人々に命じて言いなさい。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの嗣業となるべき地はカナンの地で、その全域は次のとおりである。

3 南の方はエドムに接するチンの荒野に始まり、南の境は、東は塩の海の端に始まる。 

4 その境はアクラビムの坂の南を巡ってチンに向かい、カデシ・バルネアの南に至り、ハザル・アダルに進み、アズモンに及ぶ。 

5 その境はまたアズモンから転じてエジプトの川に至り、海に及んで尽きる。 

ヨシュア15:1-4

1 ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南のほうのツィンの荒野であった。 

2 その南の境界線は、塩の海の端、南に面する入江から、 

3 アクラビムの坂の南に出て、ツィンに進み、カデシュ・バルネアの南から上って、ヘツロンに進み、さらにアダルに上って、カルカに回り、 

4 アツモンに進んで、エジプト川に出て、その境界線の終わりは海である。これが、あなたがたの南の境界線である。 

列王上8:65

ソロモンは、このとき、彼とともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大集団といっしょに、七日と七日、すなわち十四日間、私たちの神、主の前で祭りを行なった。 

イザヤ27:12

その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。

  主なる神がアブラハムと結んだ契約においても、またモーセやヨシュア、ソロモン、イザヤなどに語った時にも、「約束の地」の南端の境界線は、常に「エジプト川」であった。勿論、これはエジプトのナイル川ではなく、添付した図の中の赤い矢印で示している「ワディ​・​エル​・​アリシュ」​のことである。

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 ナイル川のように豊かな水が滔々と流れている川ではなく、おそらく雨期でなければ乾いた河川床でしかないような場所である。アブラハムの時代には十分な水量があったのかもしれないが、「約束の地」と「異邦人の地」を区切る境界線としては、どうも頼りないイメージではないだろうか。

  天地創造の神は全地の主として、イスラエルの民にせめて「ナイル川からユーフラテス川まで」の土地を約束することはできなかったのだろうか。そしてその広大な領地の内側に、「神の山」と「神の都」の「二つの聖なる場所」を設定することもできたはずである。否、むしろ「神の山」に「神の都」を造らせ、「地上で最も霊的で聖なる場所」とすることもできたはずである。

 しかし実際は、「神の山」を「約束の地」から三百キロ近く離れた荒野の、しかもエジプトで奴隷であったイスラエルの民がその「約束の地」に入る道程の「一つの通過点」として選ばれたのである。さらに驚くべきは、後世の人々が確信をもって場所を指定できないように定められた。

 そして「約束の地」の中の「神の都エルサレム」についてさえ、次のように語られた。

ヨハネ4:21-24

21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 

22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 

23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 

 それは信仰者の目がこの地上において何を慕い求め、またどう求めるべきかを明確に示していると言えないだろうか。

Ⅱコリント5:1

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 

コロサイ3:1-4

1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。 

2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 

4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。 

ピリピ3:20

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 

へブル12:18-24

18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、

19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。 

20 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。 

21 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。 

22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。 

23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、 

24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。 

へブル13:14

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。  

Ⅱペテロ3:13

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。 

 

シナイ山の位置に関する記事の紹介

 エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、モーセを通して神の律法を受け取った場所が、シナイ半島ではなく、アカバ湾の東側の地であったという、非常に興味深い主張。

 イスラエルの民が渡ったとするアカバ湾の海底にあるエジプト軍の車輪の写真など、かなり衝撃的であるが、地理座標や深度などの学術的調査データによる裏付けが必要だろう。

 WEB上では同じような主張をしている英語サイトが無数にあるが、どれも情報源はワイアット氏のもののようである。

 

 以下のサイトは上述の意見の反証記事の一例。 

 ただこの記事においても、反駁すべき点が何点かある。例えば、「間違った前提 その3」の箇所で、以下の聖句を基に検証している。

ガラテヤ4:25

このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。 

  旧約聖書のギリシャ語訳がエジプトのゴシェンのことを「アラビアのゴシェン」(創世記45:10;46:34)と訳していたり、紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスがナイル川の東を「アラビア」と呼んでいる文献などを引用し、現在のシナイ半島がアラビアと呼ばれていたこと立証しているが、それならば紀元前168年ー紀元106年に存在したナバテア王国の領域についても考慮する必要があるだろう。

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 それはちょうど使徒教会時代とも重なる時代をもち、実際に新約聖書にはナバテア王国のアレタス四世(紀元前9年ー紀元40年)に関する言及もある。

Ⅱコリント11:32-33

32 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕えるためにダマスコ人の町を監視したことがあったが、 

33 その時わたしは窓から町の城壁づたいに、かごでつり降ろされて、彼の手からのがれた。

 以下は、ウィキペディアのナバテア王国の日本語ページにある記述を一部引用したものである。

紀元前9年から紀元後39年にかけてのアレタス4世の時代にはその領土をダマスカスからヒジャーズ地方までの砂漠周辺部とネゲブ地方まで広げ、メソポタミア、南アラビアから地中海にいたるほぼ全ての隊商路を掌握した。アレタス4世の娘はヘロデ朝の君主であったヘロデ・アンティパスに嫁いでいたが、ヘロデが娘と離縁してヘロデヤと婚姻したことからユダヤに侵攻してヘロデ軍を打ち破っており、この事件はイエスの洗礼を行った洗礼者ヨハネの死の原因ともなっている。

また、新約聖書のコリントの信徒への手紙二にはアレタス4世がダマスカスにおいてパウロを捕縛しようと試みたことが記されており、ローマの市民権を有するパウロをローマの属国であったナバテア王国が捕縛しようとしたことから、ユダヤ人がナバテア王国において影響力を有していたと考えられている。

(ヒジャーズ地方とは、アラビア半島北西部の紅海沿岸地方)

 つまり使徒パウロが「アラビア」と書いた時、シナイ半島が含まれていた可能性は十分あるが、それはシナイ半島「だけ」を意味していたわけではなく、アカバ湾東側沿岸部を含めたアラビア半島の一部の領域も念頭にあったと考えるべきであろう。

 また使徒パウロとほぼ同時代の一世紀のユダヤ人著述家フラウィウス・ヨセフスは、シナイ山がミディアンの地にあり、「その地方で一番高い山である」と記述している(『ユダヤ古代誌』Ⅱ11.2-12.1参照)。ちなみにシナイ半島のシナイ山(2285m)は地域で一番標高の高い山ではなく、近くにあるカテリーナ山(2629m)の方が高い。そしてアカバ湾の東部地方、所謂「ミデアンの地」では、ヤベル・アル・ラワズ山(2580m)が一番高い。

 また上述の記事の「Eleven Days to Kadesh Barnea」には、申命記1:2「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。」を引用して、「It would be impossible to march more than 2 million Israelites through the difficult terrain from Jebel el-Lawz to Kadesh Barnea in the allotted time. 200万人以上のイスラエル人が、割り当てられた時間内に、ヤベル・エル・ラワズからカデシ・バルネアまでの困難な地域を通って歩くのは不可能だろう。」と主張している。

 しかし地図を見れば確認できるが、ヤベル・エル・ラワズの裾野のアル・バドからアカバ湾北端のエイラトまで166KM(サウジアラビアとヨルダンの二国間の国境を超えるためか、徒歩による経路計算はできなかった)だが、シナイ半島のシナイ山から同じエイラトまでは191KMで、30KM近く距離が長いのである!

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 そしてエイラトからカデシ・バルネアまで直線的な近道で197KM、標高差1000mである。しかし聖書は「セイル山を経てカデシュ・バルネアに至る」とあるので、ヨルダン・バレー沿いのよりアップダウンが緩やかな道で遠回りしたと思われるが、それでも250KM弱である。

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 合計し約410KM。11で割ると、一日約37KM。私は「十一日かかる」という表現が、200万人以上の人間の移動を考慮した数字ではなく、「三日の道のり」(出エジプト8:27)のように、単純に大まかな距離を表現していると解釈するが、いずれにせよ、もしそれが不可能だと言うならば、シナイ半島のシナイ山からの道程の方がさらにその可能性は低いはずである。

  調べ始めると確認すべきことが無数に噴き出してきりがないので、とりあえず一旦中断し、検証が進み次第、随時追記という形で書き加えていこうと思う。

 

追記1(2018年4月15日)

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 この航空写真は、アカバ湾にはり出すようにあるヌエイバの砂浜を撮ったものである。涸れた川による渓谷Wadi Watirが、地帯における海への一本道となっていることがよくわかる。

 興味深いのは、以下の聖句において、パロから逃げるイスラエルの民に主なる神は「海の傍らに宿営しなさい」と命じたことで、それはパロにとっては「荒野に閉じ込められている」状態に思えた、という点である。

出エジプト14:1-3

1 主はモーセに言われた、 

2 「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。 

3 パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。 

 ピハヒロテ【פִּי הַחִרֹת  pı̂y hachirôth】とは、「mouth of the gorges 渓谷の口」という意味をもつ。確かにヌエイバの砂浜から見れば、そこは「険しい渓谷の入り口」を成している。

 またミグドル【מִגְדֹּל    מִגְדּוֹל migdôl    migdôl】は「塔、やぐら」という意味で、砂浜の北側にあったエジプトの要塞のことを指しているのではないかと考えられている。

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 28KM²の広さならば、男子だけで約六十万人いたという群衆でも宿営できたのではないだろうか(想像するのは難しいが)。

出エジプト12:37-38

37 さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。 

38 また多くの入り混じった群衆および羊、牛など非常に多くの家畜も彼らと共に上った。 

 前述のフラウィウス・ヨセフスは、「近づきがたい絶壁と海に囲まれた」「山が海に繋がっているところ」(『ユダヤ古代誌』Ⅱ324、325参照)と表現している。


THE EXODUS EXPLORED—Nuweiba Beach

 また列王記では、アカバ湾が「葦の海」と呼ばれているのも、注目すべき点である。

Ⅰ列王9:26

また、ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にあるエラテに近いエツヨン・ゲベルに船団を設けた。

 地理的に考えて、民数記21:4の「葦の海」はエドムの地に隣接していたアカバ湾のことであろう。

民数記21:4

彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、 

『Israele e Italia - Uniti Verso La Radice』が引き起こしたスキャンダルに関して(追記)

 私個人はBDS運動(Boycott, Divestment and Sanctions movement)に参加する選択をしていない。例えば不買運動によってイスラエルのある企業が経営困難に陥ったとしたら、まず第一に被害を受けるのは被雇用者であり、その中にはイスラエル人だけではなく、低賃金で雇われているパレスチナ人や外国人労働者がいる可能性が大きいからである。そして多くの場合、社会的に弱い立場にいる人々には他の仕事が見つけられる可能性は低く、失業による貧困が暴力や犯罪、そしてテロリズムに繋がりうることも主張されていることである。

 これはあくまで私個人の見解であって、例えば同じ教会の兄弟姉妹が不買運動に参加したとしても、それがあくまで個人の選択であるならば、私にはそれを否定する権利は与えられていない。しかし地域教会の責任者である牧師が、教会代表という名目で公に不買運動に署名したり、逆に不買運動に反対する書類に署名するならば、その政治的な選択のゆえに、同じ教会に属しながらその選択に同意しない立場の人間の良心に、本人の望んでいない重荷を加えることになる。しかも同じ地域における、「同じ教派の集まり」という文脈がある場合、その影響は社会的でさえあり、また教義の領域まで浸透してくるからである。

 もし聖書が飲食に関してさえ他人を躓かせないためにデリケートな配慮を求めているのなら、このような複雑な政治問題が絡んだテーマに対しては、さらに慎重な行動が必要なのではないだろうか。

Ⅰコリント10:23-24;31-33(新改訳)

23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。 

24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。 

31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 

32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。 

33 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

『Israele e Italia - Uniti Verso La Radice』が引き起こしたスキャンダルに関して

 去る2018年2月19日(月)にシチリア島の第二都市カターニアにおいて、「Israele e Italia - Uniti Verso La Radice」という一つのイベントが開催された。このイベントのタイトルは「根に向かって一つに」という意味であり、カターニアのいくつかの福音派地域教会の牧師らが、ユダヤのヘブロンの州政府要人(イタリア駐在ヘブロン大使・戦略局長と州義会代表)と共にペンテコステ教会を会場に集まった。

 イベントの主催者は、Son of Avraham Foundation である。

 このイベントが開催された直後から、イタリアの福音派グループにおいて激しい議論がインターネットを通して起きた。なぜなら、参加した福音派各教会を代表する牧師らが、ヘブロンの政府要人に対して一つの政治的・商業的誓約を交わしたからである。以下のビデオは、牧師らがその誓約書に署名しているものである(イタリア語であるが、映像を確認していただきたい。)


Catania: il patto massonico tra le Chiese Evangeliche ed Ebrei

 誓約書の内容は、パレルモで行われたもう一つのイベントに関するニュースが伝えている。Italians embrace South Hevron Hills - Israel National News

 要するに世界的に広まっているBDS運動(Boycott, Divestment and Sanctions movement)に反対する意を公的に誓約したということである。個人の良心に基づく選択というレベルの話ではない。主イエス・キリストの栄光を賛美するために召された地域教会を代表して、牧師らが何人も集まり、公に誓約書に署名したのである。

 しかしその一枚の紙以上に、多くの福音派信者を憤慨させ、悲しませたのは、そのイベント会場となった教会に設置されていた「Gesù Cristo è il Signore. (イエス・キリストは主である。)」という、信仰者の最も基本的で重要な信仰告白を書いた表示を、上述のイスラエル政府要人を「配慮して」撤去したことである。

GRAVE SCANDALO A CATANIA! La Chiesa Evangelica Pentecostale ha ubbidito agli Ebrei togliendo la scritta: «Gesù Cristo è il Signore»! | Chi ha orecchi da udire, oda

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 この撤去に関して、イベント会場の教会牧師(Ottavio Prato)が自発的に行ったことが、この記事で説明されている。公開されている彼自身の説明によると、当初はモットーをそのまま残すつもりだったが、祈りの中で、主イエスが使徒ペテロに啓示した大きな敷布の幻のエピソード(使徒行伝10:9-16 参照)を示し、「Togli la scritta! Io vivo nei cuori’.(書かれたモットーを取りなさい。私は心に生きている。)」と命じたから、ということである。

 使徒ペテロが見た幻は、ユダヤ人から「穢れている」と見做されていた異邦人にも主イエス・キリストの救いが備えられていることをペテロに示すためのものだったので、「イエス・キリストは主である」という信仰告白を取り除く選択とどう関係あるのか、個人的に全く理解できない。また聖霊が「私は心に生きている」と語ったというのなら、元々そのような表示は必要なかったことを意味し、何もこのようなスキャンダルを引き起こすようなデリケートな状況においてわざわざ撤去を命ずるのではなく、もっと前から「啓示」することもできたはずである。自分の言い訳のために、聖霊の導きを謳うのは不誠実ではないだろうか。そもそもそのような「愛に基づく配慮」をしたかったのなら、会場にホテルのイベントホールなどを借りるべきだっただろう。

 そして実際に参加した信徒の証言によると、二時間以上のイベントにおいて、御子イエス・キリストの名がただの一度も使われず、「神」という表現に慎重に言い換えられていた、とのことである。

 何年も前からこのような事態がイタリアにも起きることはわかっていたつもりだが、実際に起きるのを見ると、実に忌々しい思いになる。そして他のエキュメニカル運動で起きているのと同様、「釣り合わないくびきを共にする」ことによって、同じくびきを負うべきはずの兄弟姉妹同士が引き裂かれている。

わたしの国はこの世のものではない。

ヨハネ18:33-37

33 さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。 

34 イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。 

35 ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。 

36 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。 

37 そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。 

 36節において、御子は「わたしの国はこの世のものではない」という、二度の強い否定の間に、逆説的仮定「もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう」を挿入し、その主張そのものをより強調している。

 「国」と和訳されている原語【βασιλεία basileia】は「王国」を意味する。 そして「わたしは王である」と明らかに宣言している。

 十字架の死を前にして、御子イエスはまるで国と従者を持たない王のようであった。しかし現実には、罪と虚無の中に彷徨っていた放浪者であった私たち人間を、時を超えて存在する神の御国に属するものとするために、自らこの世に来てくださったのである。

 「だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。自分の国を定義し、またその国に属する者がどのような者であるかを決めるのは、王自身である。地上の如何なる政治国家、たとえその国が「キリスト教国」と呼ばれようと、または「神の選民の国」と定義されようと、キリストの王としての絶対的主権に従い、キリストが証しした真理を求め、キリストの声に耳を傾ける者によって構成されているのでなければ、それはあくまで「この世」に属しているのであって、イエス・キリストの御国ではない。

 そして信仰者は王の真理の御声に聞き従い、王と同じように「この世」に対して死んだのである。

ガラテヤ6:14

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。  

ピリピ3:17-21

17 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。

18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。 

19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。 

20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 

21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。 

天にある御座と聖所の幻を見た使徒ヨハネ

黙示録7:9-17

9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、 

10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。 

11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、 

12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。 

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。 

15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。 

16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。 

17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。 

 小アジア(現在のトルコ領)のスミルナ出身のエイレナイオス(西暦130年頃 – 202年)の証言によれば(『Adversus haereses』5.30.3.)、『黙示録』はドミティアヌス皇帝の治世(西暦81年―96年9月18日)の末期に書かれたと考えられている。アレクサンドリアのクレメンス(西暦150年-212年)やオリゲネス(西暦185年頃 -254年頃)によれば、ネロ皇帝治世下(西暦54年―68年)において書かれたと証言されているが、ローマ帝国による宗教的迫害が小アジアの地域教会にまで及んでいたことから、ネロ皇帝の時代の特徴に適合しないと考えられる。

 エイレナイオスの証言に基づくなら、使徒ヨハネが流刑の島パトモスで『黙示録』の啓示を受けた時、ローマ軍による西暦70年のエルサレム陥落と神殿破壊から、20年以上も経過していたことを意味する。つまりその当時には、エルサレムの神殿もその神殿における礼拝も消滅していた、ということであり、御子が地上公生涯において預言していたことが完全に成就していたということである。

マルコ13:1-2

1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。 

2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。

ルカ21:5-6;20-21

5 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、 

6 「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 

20 エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。 

24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。 

 そのような歴史的状況において、福音宣教のゆえに迫害を受けていた老齢の使徒ヨハネが、冒頭に引用した聖句のような天上の啓示を受けた時、言葉では言い表し難い慰めを受けたのは容易に想像できることではないだろうか。

それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

 人間的に考えれば、使徒ヨハネも一人のユダヤ人として「イスラエルの復興」に関心があったかもしれない(使徒行伝1: 6参照)。しかしエルサレムが陥落し、神殿が完全に破壊されたことによって、また教会が激しい迫害を受け、自身も流刑の身となることによって、彼の希望はさらに天的なものに昇華されていただろう。

 それは同じように福音のゆえに囚われの身となっていた使徒パウロや、『へブルびとへの手紙』の筆者、そして使徒ペテロが受けていた慰めや希望と同じ種類のものだろう。

ピリピ3:20-21

20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 

21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

へブル12:22-24;13:14

22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、 

23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、 

24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。 

13:14

この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。 

Ⅰペテロ1:3-4

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、 

4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。 

Ⅱペテロ3:11-13

11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、 

12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。 

13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。