an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

心に刻まれたイタリア語の讃美歌(1)

 ある姉妹と讃美歌について意見交換していて、自分の信仰者としての歩みの中で心に刻まれている讃美歌の一曲を思い出したので、読者の方々に紹介したいと思う。

 オリジナルは英語で「O Perfect Love」、日本語だと「賛美歌428番 全き愛」で、通常、結婚式のときに歌われるようであるが、イタリア語の歌詞の内容はどちらかというと「信仰と愛による伝道献身」を表現している。

 残念ながら、イタリア語の讃美歌を録音したビデオは見つけられなかった。

以下、イタリア語歌詞を和訳してみた。

"VIENI", Ml DISSE/(主は)私に「来なさい」と言われた

 

1."Vieni", mi disse

Un giorno il Redentore,

"Segui il sentiero che t'additerò";

Ed io, col cuore,

Fervido d'amore,

Te, mio Signor, ovunque seguirò!

 

「来なさい」、

ある日、贖い主は私に言われた。

「私が示す道をついてきなさい」と。

私は愛に燃え、心から(言った)、

「わが主よ、どこへでもあなたに従ってまいります」。

 

2.

Ti seguirò,

Signor, fra quei che pace

In cor non hanno, e parlerò di Te;

E a lor dinanzi

Splenderà la face

Della Tua grazia, della Tua mercè.

 

あなたに従ってまいります、主よ、

心に平安のない人々のところへ行き、

あなたのことを話します。

彼らの前で、あなたの恵みと憐みが私の顔に輝くでしょう。

 

3.

Ti seguirò

Là dove il male impera

Fra i derelitti figli del dolor;

Fra quei che ancor

Non sanno la preghiera

A Te levar dall'indurito cor.

 

あなたに従ってまいります。

悪が支配し、

見捨てられた苦しみの子たちのところへ。

硬くなった心からあなたに捧げる祈りを

いまだ知らぬ人々のもとへ。

 

4.

E quando alfine

La mia stanca argilla

Nel muto avello si dissolverà,

Nei cieli eterni

L'alma mia tranquilla

Sull'ali d'or, Gesù, ti seguirà.

 

そして最後に

私の疲れた粘土は、

無言の墓の中で朽ち果てるでしょう。

そして永久の天において

私の安らかな魂は

黄金の翼の上で、イエス様、あなたに従うでしょう。

 

またきあい(全き愛) 結婚式の讃美歌

 


O Perfect Love

あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。

ヨハネ3:30

(口語訳)

彼は必ず栄え、わたしは衰える。 

 

(新改訳)

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

 

(岩波訳)

彼は大きくなり、私は小さくならなければならない。

 

(新共同訳)

あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。

 どの訳も原語にある「必然」のニュアンスを訳出している。そしてこの信仰の言葉を発した洗礼者ヨハネの「必然的衰え」だけでなく、御子の「必然的栄え」も十字架の道を通らなければいけなかったことは、非常に重要である。

ルカ17:25

しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。 

 結局、私たちの自我の「衰え」、つまり自己否定や謙遜、無我も、そしてそれによって人から称賛を受けるようなことがあっても、「キリストの十字架の友」として歩んでいなければ、キリストの「栄え」とはならないのである。

ピリピ3:18-19

18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。

19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。 


Jesus, Keep Me Near the Cross

 是非、目を閉じてこの賛美を聴いてみてほしい。

視界を塞ぐ衝立

黙示録1:9-17a

9 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

10 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

11 その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。

12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。

13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。

14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。

15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。

16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

17a わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。

 御子の栄光の姿が顕れた時、福音宣教のために流刑をも耐え忍んでいた「愛の使徒」ヨハネが、御子の足元にひれ伏し、死人のように力を失ったのならば、御子の御前に立っている気になり、真実の愛を求めている人々の視界を塞いでしまっているのなら、私は一体何者なのだろうか。

 「信仰の父」「神の友」アブラハムも、「全ての人に勝って柔和であった指導者」モーセも、「エリヤと並ぶ大預言者」イザヤも、「知恵の人」ダニエルも、主なる神の栄光を垣間見た時、御前にひれ伏し、神を畏れ、自らの力を失った。

 現在に至るまで十字架の死のしるしをもつ御子の前では、十字架の霊が働き、人間の古い力は全てを失い、復活の命なくして自立していることができない。

 自分の欺瞞、偽善、さらに善行や霊的経験さえも、御子の栄光と人との間で「視界を塞ぐ衝立」のようになっているのなら、今一度、本当に自分は御子の前にいるのか、自省する必要があるのだろう。

キリストの奥義

エペソ3:1-6

1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ――

2 わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。

3 すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。

4 あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。

5 この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。

6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。  

 ここで使徒パウロは、キリストの奥義に関して非常に簡潔に説明している。

異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。

  「私たち」とは、使徒パウロを含めたユダヤ人信仰者のことを指す。つまりユダヤ人の中からイエス・キリストの福音を信じて救われた人々と、ユダヤ民族の属さない全ての人々の中から救われた人々が、キリストの体である教会として一つになり、共に神の約束を受け継ぐ者となることである。

 異邦人信仰者がキリストを信じることによってユダヤ人選民意識の中に吸収されたのでは断じてない。ユダヤ人も異邦人も、それぞれ罪の奴隷状態や地上的宗教性から贖い出され、キリストの体の中に導き入れられ、教会として一つの民となったのである。

 福音の真理を受け入れた信仰者にとっては明確なことだが、終わりの時には「イスラエル民族の選民意識」に惑わされている人々が少なくない。異邦人信仰者が政治国家としてイスラエル共和国との関係を見つめ直すよりも、イスラエル人だろうがディアスポラのユダヤ人だろうが、また他のどの民族に属しどの国に住んでいようが、各自がそれぞれの信仰によって「救い主イエス・キリストとの関係」を見つめ直すことの方が、はるかに重要であり、優先すべきことである。

ガラテヤ3:26-29

26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。

27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。

28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

コロサイ3:11

そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。 

ブログに関する雑考

 私が現在使用しているはてなブログのプラットホームに関して、少し考えてみた。というのは、最近スマホ用の表示で「関連記事」という、一つの記事に関連する過去の記事をはてなが自動的に選び、記事の下に添付するシステムができたからだ。

 おそらく関連記事の選択の基準は、記事のタイトルと記事の中で使われている共通の言葉の数であろうし、またその中でもPV数の多い記事が自動的に選ばれているのだろう。私自身が選ぶ関連記事と重複する時もあれば、全く予想していなかった記事のリストが出てくる場合もある。これはこれで問題ないと思うし、自分でも忘れていた過去の記事を読み直す機会にもなっているので、面白いシステムだと思うが、これをきっかけに「無料ブログシステムの限界」について改めて考えることになった。

 このブログをはじめてしばらくして、有料のプロ・バージョンにグレードアップしようとし、海外在住という理由でそれが不可能なことを知った。なぜグレードアップしようとしたかというと、やはり画面から広告を取り除きたかったからである。PV数が極わずかな時期には、はてな側もメリットがないだろうと思うが、理論的にPV数が上がれば上がるほど、また検索で上位に上がれば上がるほど、より多くの広告をそのブログに出そうとするはずである。それはプラットホームを提供する側のビジネスであり、私はその提供されたものを無料で利用しているのだから、それに対してどうこう言えないわけである。

 そこで長期的な目で見ると、有料で広告無しのブログを提供しているWordPressなどで、自分が書いた記事の内容だけでなく、ビジュアルデザインを含め画面に表示されるすべてに自分の選択の自由と責任を負うことができる新しいブログを作りたい、と思っている。勿論、明日のこともわからぬ身として、「もし神の御心ならば」ということは、言うまでもないが。

 ちなみにこのブログに自動表示される広告は、読者のインターネット上の検索や履歴が反映されているもので、ブログ管理者の意図とは全く関係はない。

 またコメントに承認制を選んだは、読者の方々が自由にコメントできる可能性を提供すると同時に、このブログの主旨と方向性を守るための一種の妥協策であって、よりよい選択肢が今のところないからである。しかし現時点で1212のコメントが寄稿されたが、わずかな例外を除いて、相当悪質なコメントも最終的には承認している。すぐには承認しない場合でも、ある程度時間が経過してから公開することにしている。時間の経過が新しい観点を与え、全く異なる反応を生み出すかもしれないからである。

奇妙な比較

 通常、ある人物の偉大さについて語るとき、他の偉大であったり、優れていたり、誉ある人物や事象と比較するものである。聖書における御子の啓示に関しても例外ではない。

 以下、実際に聖書が啓示している御子の偉大さに関して述べている比較の聖句を挙げる。

  • エルサレムの神殿よりも大いなるイエス:

マタイ12:5-6

5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

  • 預言者ヨナに勝るイエス:

マタイ12:41

41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

  • 栄華を極めたソロモン王に勝るイエス:

マタイ12:42

南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。 

  • ダビデ王に勝るイエス:

マタイ22:41-45

41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、

42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。

43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。

44 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。

45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

  • 「信仰の父」「神の友」に勝るイエス:

ヨハネ8:52-53;58

52 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。

53 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。

58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。 

  •  イスラエル民族の父ヤコブに勝るイエス:

ヨハネ4:12-14

12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。

13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。

14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 

  •  預言者・指導者モーセに勝るイエス:

へブル3:1-3

1 そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。

2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。

3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。 

  •  御使い、さらにサタンにも勝るイエス:

へブル1:4-6

4 御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。

5 いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。

6 さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた。 

Ⅰヨハネ4:4

子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。 

  •  律法によって立てられ、宮で仕えていた祭司たちに勝るイエス:

へブル7:23-28

23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。

24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。

25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。

26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。

27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。

28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。  

 しかし次の聖句に啓示されている比較は、とても奇妙なものである。

Ⅰヨハネ3:20

なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。

 「呵責に苦しむ私たちの良心」と、偉大なる無限の神を比較しているのである!

 しかし実際のところ、私たちの心の中にある、あの言いようのない虚しさや、笑顔や忙しさで隠している心の罪悪感や重圧、劣等感は、この世の如何なる偉大な人物や偉業であっても完全に取り去ることができないほど、重く、深い根をもち、そして手に負えないほど狡猾である。

エレミヤ17:9-10

9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

 ただ人の心を完全に知る主なる神だけが、全ての者に勝る御子の贖いの死と復活を通して、私たちの心を罪と闇の支配から完全に勝ち取ってくださるのである。

コロサイ1:13-14

13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。

14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。 

この世に遣わされた者としての聖別

ヨハネ17:14-19

14 わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。

15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。

16 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。

17 真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。

18 あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。

19 また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。 

 最後の晩餐の後、御子が父なる神との最も親密で神聖な「会話」つまり祈りを、弟子たちが話す言葉で共有していることに驚きを覚えないだろうか。この時点での弟子たちは、誰が自分たちの中で一番偉いのかを議論していたほどだから、御子の祈りを汲み取ることはできなかったと思われる。それでも御子は、弟子たちが普段使っていた言葉で、弟子たちが聞こえるように、最も親密な関係における祈りを共有しているのである。それはご自身の死と復活を通して聖霊が下り、やがて弟子たちも同じ霊によってこの世に遣わされることを知ってたからであろう。

 実際、御子はまるで何度も輪郭線をなぞるかのように、弟子たちと「この世」の関係を繰り返し強調している。

  • 御子がこの世に属していないように、弟子たちもこの世に属していない。
  • しかし御子は弟子たちがこの世から取り去られることを望んでおらず、むしろこの世に遣わし、そこで真理の証しをすることを望んでおられる。
  • だから弟子たちを御言葉のゆえに憎むこの世の悪しき者からの守りを祈っている。

 ここに地上の生における信仰者の聖化の本質(動機、意味)があるのではないだろうか。信仰者は、回心した瞬間にキリストの尊き犠牲の死によって「聖なるもの」「きよめられたもの」として神に見なされる。主なる神は、その時点で信仰者をそのまま御許の栄光へと引き上げることもできるが、ほとんどの場合、信仰者はこの世における「聖化のプロセス」を通ることになる。その時間や密度は人それぞれだが、必ず通る道である。

 この地上の生における聖化のプロセスの最終段階で、信仰者は神のように完全に神聖な者となるのだろうか。現実的経験が私たちに「そうではない」と証している。それならば、「たいして清められていない」として聖化のプロセスを否定すべきであろうか。否、神の働きは確かに信じる者の人生において有効なのである。

Ⅰコリント6:9-11

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

Ⅰテモテ1:12-16

12 わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。

13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。

14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。  

 御子が真理を証しするためにこの世に遣わされたいたように、弟子たちも主なる神によって召され、この世に遣わされ、その時が来るまでこの世に残り、真理を証するのである。

 もしこの聖別の概念を見失ってしまったら、信仰者は簡単に元々属していた世界に再び吸い込まれ、方向性を見失い、この世の憎悪に食い尽くされてしまうだろう。

 「真理によって彼らを聖別して下さい」と父なる神に祈られた御子が、「彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」と言って、十字架の苦難の死に自らを完全に捧げることを宣言しておられる。つまり御子は「彼らが真理によって聖別されるように、私はあなたが命じた為すべきことを全てし、自分の命を完全に捧げます」と宣言しているのである。

へブル10:10

この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 

 私たちがすでに肉体的にも御使いの賛美に囲まれ、天の栄光の中に生きているのなら、聖別という境界線を意識する必要はないだろう。その反対に、もしこの世に生きることに満たされ、この世の価値観と自分のそれに調和があると感じるのなら、聖別しなければならない理由など理解できないだろう。

 しかしもし私たちが「永遠の栄光を味わった者」として、御子を憎んだ、自分には属していないところである「この世」に遣わされていると意識するならば、真理による聖別は自分の魂だけでなく、周りにいる人々の「死活問題」であることが実感できるはずである。

へブル12:14-15

14 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

15 気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

Ⅰテサロニケ5:21-24

21 すべてのものを識別して、良いものを守り、

22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。 

 真実で平和の神御自身が、私たちを清め、主の来臨の時まで、つまりこの地上の生を全うするまで、私たちの霊と心とからだとを完全に守って、責められるところのない者にしてくださるという希望があるからこそ、私たちは「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざか」るのである。

 

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