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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

カゼルタ宮殿のパラティーナ礼拝堂の「傷跡」

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 南イタリアのナポリ市から約20kmのところにあるカゼルタ Casertaの宮殿に行ってきた。世界遺産として認定され、様々な映画のロケにも使われている18世紀の宮殿の壮大さとその内部の装飾の壮麗さは実に驚異的だが、私の関心を奪ったのはパラティーナ礼拝堂の内部の破損した柱であった。自分でもかなりひねくれているとは思うが、美しい調和の階段や様々な装飾よりも、今にもバキッと折れそうなコリント式の柱が気になってしまったのである。

 説明を聞くと、第二次大戦中、アメリカ軍の空爆を受け、その後修復工事が施工されたものの、オリジナルの大理石がもう掘り尽されて手に入らないことから、復元されることなく現在に至っているらしい。ちなみに、礼拝堂の中にあったオルガンも完全に破壊され、再現されなかったようである。

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 セメントか樹脂のようなもので粗雑に塗り固められず、完璧に修復されていたら、おそらく爆撃にあった歴史など、わずかな言葉によってしか伝えられなかったかもしれない。見学者にも実感は湧かなかっただろうし、ただ「美しいものを観た」という感想だけしか残らなかったかもしれない。

 しかし修復する石が手に入らなかったゆえ、その「傷跡」は残り、過去の惨事を静かに物語っているのである。オリジナルの状態の栄華を復元するというのも、修復の一つの在り方なのかもしれないが、個人的にはこのように過去の人間の失敗や愚行の「傷跡」を残す在り方も、十分に意味があるのではないかと思う。

 興味深いシンボリズムである。

大空は御手のわざを示す

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 秋の不安定な天気が生み出す一瞬の表情。陽が沈むのを惜しむかのように、雲が青く輝いている。

 ダビデの詩篇が自然に口に出てくる。

詩篇19

1 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。

2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。

3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、

4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。

5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。

6 それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。

7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

10 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。

12 だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。

13 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。

14 わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。  

 この詩篇を三つの要素に分類すると、ダビデに対する聖霊の働きがより明確に実感できるのではないかと思う。

Ⅰ (1-6節):自然に啓示されている創造者なる神の栄光

Ⅱ(7-11節):神の御言葉(掟、証し、諭し、戒め、道、裁き)の啓示

Ⅲ(12-14節):神の臨在と御言葉の啓示を受けた魂の祈り

 つまりダビデは、目の前の壮大な自然の風景の中に創造主なる神の偉大さを見出し、そこからさらに、様々な神の書き記された証しや掟、戒めの完璧さに思いを馳せ、そして御言葉の啓示の光に照らされたがゆえ、現実の自分の姿に祈らずにはいられなくなった、その一連の心の動きが生き生きと表現されている。

 風や光、太陽の熱、水蒸気などの様々な要素が織り成す情景。それは心の襞の奥まで映り込み、目で見、手で触れ、言葉で表現できる領域の向こうにある「何か」を切望する思いを生み出す。

伝道の書3:11

神のなされることは皆その時にかなって美しい。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

 

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あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。

ルカ12:13-21

13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。

14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。

15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。

17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして 

18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。

19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。

21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。 

 「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。」 主イエス・キリストに対してリクエストした男は、おそらく長男でなかったがゆえ、遺産相続において何も受け取ることができなかったのだろう。現代における人間的・社会的観点からすれば、正当な主張かもしれないが、主イエスの目は、貪欲という、人間の心のもっとも根源的な罪を見ていたのである。

 確かに貪欲、特に金銭や所有物に関する貪欲は、人間の心を根底から蝕み、腐らせる。それは信仰の有無に関係なく、魂を刺し通し、神の国から除外し、永遠の死に至らせる。

Ⅰテモテ6:9-10

9 富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。

10 金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。 

Ⅰコリント6:9-10

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。 

エペソ5:5-7

5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。

7 だから、彼らの仲間になってはいけない。

 だから聖書が「貪欲」を偶像崇拝であると断罪するとき、それは決して誇大表現しているわけではない。

コロサイ3:5-6

5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。

 譬えの中の金持ちの言葉を読めば、貪欲がなぜ偶像崇拝に値するかが理解できる。彼は自分の欲望に突き動かされ、まるで神になったかのように、自分だけで判断し、自分で為すべきことを計画し、自分で自分の魂を「祝福」しているのである。

17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして

18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。

19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

 しかし彼の心の中で起きていた一連のプロセス、つまり観察、探求、提案、計画、そして「祝福」には、被造物に対して絶対的な権威をもつ創造主である神の存在が決定的に欠けているのである。だからこそ、自分の命が夜明けを見ることがないかもしれない、という可能性を想像することも、地上におけるあらゆる行動に対して主なる神の御前で申し開きしなけならないという畏敬の念さえも欠けていたのである。

すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。

 個人的に今まで何人も貪欲に蝕まれた人々に出会ったきた。イタリアの各地に多くの不動産を所有し、全く働くなくても口座に毎月お金が振り込まれる生活していた老人が、自宅の天井が雨漏りするというので数社の業者に改修の見積もりを請求し、ほんのわずかな金額を節約するために値段交渉し、決定を渋っているうちに、肝心の天井が崩れ落ちたという、まるで笑い話のようなケースを身近で見たことがある。結局、その老人は天井の改修が終わる前に病気で亡くなってしまった。たった一人残された老齢の妻が管理することも、享受することもできないほどの財産を残して。

 神の人ヨブが、災害によって十人の子らを一度に失い、全財産を失っただけでなく、自ら皮膚病に冒されて苦しむ試練のストーリーは非常に有名である。だが忘れてはならないことは、その苦難の時期の前に、ヨブは繁栄という一種の誘惑の中にあって、神の御前で罪の誘惑と戦っていたことである。

ヨブ1:1-5

1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

2 彼に男の子七人と女の子三人があり、

3 その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 

4 そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。 

5 そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。 

 何をどれだけ持っているか、という心の外にある要素よりも、心の中にある「あらゆる貪欲」が問題である。そしてそれは、貧しい者も富んでいる者も、苦しんでいる者も安泰な者も、皆共通して持っているものだからこそ、主イエスはリクエストした男だけでなく周りにいた人々全員に対して、よくよく警戒しろと戒めたのではないだろうか。

あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。

 そして神を信じる者としての最も危険は誘惑は、神殿へ祈りに行ったパリサイびとのように、自分にはそのような貪欲がない、と考えてしまうことであろう。

ルカ18:11-12

11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

 

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誰が隣人になったか。

ルカ10:25ー37

25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

28 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

 確かに「私の隣人は誰か」と問うことと、「誰が困窮している人の隣人になったか」を問うことは対極をなしている。一方は理念的な領域に留まっており、もう一方は実際の行動を基に判断されるものだからである。

 たとえ話の中に登場する祭司とレビ人の心のうちにも、主なる神に対する宗教心や律法に対する思いがあったと考えても間違えではないはずである。主イエスは、サマリア人を登場させることによって、逆に「祭司・レビ人・律法学者=偽善的宗教家」「サマリア人=不敬な異教徒」というステレオタイプの観方を超えて、人間を「ひとりの隣人」として扱っている。問題は、どのような人種や社会的地位、主義に属しているかではなく、「実際に誰かの隣人となったか」が問われているのである。

 昨日、礼拝の後にある兄弟が8月の休暇中の奉仕の証しをしてくれた。南イタリア出身のこの兄弟は、日本のお盆休みにあたる8月15、16日にナポリの中央駅に行って、駅構内や近辺に生活しているホームレスの人々に食事を提供したという。それらの人々は、元々普通の家庭を持ち、自分の仕事や事業をもっていた人々だが、様々な理由ですべてを失い、行き場を失って現在の生活を強いられているということだ。

 特に心を打ったのが、一人の男性に関する証しである。この男性は一年前まで自分の会社を経営していた事業家であったが、不景気の影響で事業に失敗し、やはり全てを失ってしまったという。兄弟が彼に出会ったときの状態を写真で見せてもらったのだが、怪我した足の治療もできず、化膿して膨れ上がった足は直視することが困難なほどおぞましい状態であった。

 兄弟はその男性を緊急病院に連れて行ったのだが(タクシーの運転手に乗車拒否されたが、清掃の費用として余計にお金を払って何とか乗車させてもらったという)、病院においても彼がホームレスであるという理由で治療を断られた。この兄弟が強く出て、やっと治療してくれたという。

 私は社会的奉仕を強調し、礼拝や聖書研究の重要性を蔑視する極端な立場には同意しない。しかし、もし私たちの信仰心が、自分たちの「正統的信仰」の中で「自分を愛するように愛するに相応しい私の隣人とは誰か」を問うことに留まっているのなら、その信仰は虚しいと強く感じるのである。つまりそれは、自分と同じように考え、自分と似たような生き方をしている人を、無意識のうちに選別し、自分の周りに集めようとすることを意味しているのではないだろうか。

 自分が属している教会や信仰的繋がりを一歩離れた視点で見ることは不可欠ではないかと思う。もし同じような社会的立場ばかりが中心となって集まっているならば、「自分を愛するように隣人を愛す」がいつの間にか、「自分を愛する隣人を愛す」という排他性を帯びたものに変質していないか、自省する必要があるのではないだろうか。

 初代教会においても顕れていた問題であり、聖書に書き残されている以上、自分たちも同じ弱さを持っていること、そしてそれに対処することが求められていることは明らかである。

ヤコブ2:1-17

1 わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。 

2 たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。

3 その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、

4 あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。

5 愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。

6 しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。

7 あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。

8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。

9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。

10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。

11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。

12 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。

13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、

16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

 

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ブドウの収穫

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(ケースに手摘みで収穫されたピノ・グリージョのブドウ)

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 宿泊していたアグリツーリズモでブドウの収穫をしていた。傍から見れば、収穫されたケース一杯のブドウは喜びでしかないが、この収穫は農家の方の年間を通しての労苦を意味している。特にこの農家はオーガニック農法で栽培しているので、ある意味、通常以上の手間暇をかけていることになる。

 素朴な甘さの実には、農夫の様々な知恵と、汗と、そして剪定の「痛み」が隠されている。

 

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イタリア中部地震

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(13世紀の鍾塔が崩壊せず立っている。その時計の針は、最初の揺れが起きた3時37分を指したまま止まっている。)

 今回の地震では、特にAmatrice(アマトリーチェ 動詞Amareから派生する「愛する人」「恋人」「アマチュア」という意味)という町が被害が大きかった。この町は、2009年に地震によって甚大な被害を受けたラクイラから約40km(1300年代や1700年代など周期的に地震が発生し、被害を受けている)しか離れていないところにある。

 人口2600人ほどの小さな町だが、8月はバカンスに訪れる人や帰省する人も多く、実際、観光客もかなり犠牲になったようである。現時点(8月26日)で267名の犠牲者が公表されているが、今後その数はさらに増えると予想される。

 今朝もまたマグニチュード4の揺れがあり、建物が崩壊した。最初の揺れから今日まで、マグニチュード2以上の揺れが800回記録されているというから、全く安心できない状況である。

 イタリアのほとんどの建物はレンガや石を積み上げて建てたもので、一度大きな揺れを受けるとレンガ同士の「つなぎ」が壊れ、その強度は一気に落ち、その後の繰り返しの揺れで崩壊する可能性が大きくなる。2012年、ボローニャ市郊外で発生した地震でも、二度目の揺れで崩壊した建物が多かった。私もその時は建物の中にいたが、日本における地震で建物が揺れるのとは違い、ガチガチした「固い」揺れに「これは崩れるかも」という印象を受けたことがある。イタリアでは地震がおきたら、真っ先に外に出るのはそのためである。

 ニュースを聞いていて、1980年にカンパーニア州のイルピーニアでおきた地震を体験した信仰者の証しを思い出した。この姉妹は地震が起きた時、学校の友達と道を歩いていたが、突然道沿いの壁が倒れてきて、その衝撃で近くに駐車してあった車の下に吹き飛ばされ助かったそうである。しかし、車の下から出ていた両足は崩れた壁でつぶされ、義足を使わなければいけなくなった。彼女は車の下で泣きながら友達の名を呼んだが答えはなく、結局楽しくおしゃべりしながら一緒に歩いていた親友を全員失ってしまった。

 彼女はその悲しい経験をきっかけに、自分が生き残ったことや命について考えるようになり、主イエス・キリストに対する信仰をもつに至ったという。彼女が「与えられている命」について証をしている時、時が止まったかのように、遥か遠くを見つめていたのが印象的であった。

胡桃の木

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 宿泊しているアグリツーリズモにあるクルミの大木の幹。

 ねじ曲がり、裂け、虫食い、今にも倒れそうな幹にもかかわらず、その葉は瑞々しく、心地よい木陰をつくっている。何より、今でも毎年大きな籠一杯になるほど実を結ぶという。

 人生における様々な試練を通して、主キリストの栄光のために実を結ぶ信仰者を思い出させる。

Ⅱコリント4:7-11

7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。

9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。

10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。

11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

詩篇92:12-15

12 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。

13 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。

14 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、

15 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。