an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

全ての人のために死を味わわれた御子イエス

へブル2:5-10

5 いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。 

6 聖書はある箇所で、こうあかししている、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか。 

7 あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、 

8 万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。 

9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。 

10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 

 「すべての人のために死を味わわれるためであった。

 「死を味わう」何と強烈な表現だろうか。「味わう」と和訳されている動詞【γεύομαι】は、「食べる」という意味も持ち、「経験する」という含みをもつ。それは同じ節にある「死の苦しみ」とも通じる、御子イエスの霊、魂、肉体の全人格を巻き込む経験であった。

 それでは御子が「味わった」死とは、一体どのようなものであったのだろうか。

 御子は本来、肉体を持たない純粋な霊なる存在として、死ぬことができない存在であった。また絶対的正義と神聖さによって、ご自身のうちに死ななければいけない原因を持たない方であった。なぜなら、聖書は「罪の報酬」として、死を定義しているからである。

ローマ6:23a

罪の支払う報酬は死である。

  そして罪とは、神の律法を犯すことである。

Ⅰヨハネ3:4-5(新改訳)

4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。  

5 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。 

 御子は神の律法を犯したことがなく、自ら罪の責任を負う必要がなかったにもかかわらず、その報いであり、裁きである死を全ての人のために味わったのであった。

Ⅱコリント2:15

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 

Ⅰテモテ2:6(新改訳)

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。  

 すべての人は罪を犯したゆえ、神のいのちと栄光を持ち合わせておらず、霊的死のうちに生きている。またそれに対するリアリティーを持つ事ができず、その意味を認識していない。

 例えば、世界の貧困地区には、ゴミ捨て場の中で生活している子供たちがいることが知られている。彼らはその劣悪な環境の中で、健康を害し、自分たちが日々生活している環境が不衛生であることに気付いているだろう。しかし、まさにそこで生まれ育っているだけに、その環境がどれだけ不衛生であるか、客観的に判断することができないのである。

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 自ら罪を犯したことがない御子イエスだけが、本来私たち罪びとが向き合わなければならなかった「死の本質」を完全に理解することができた。そして罪のない彼だけが、「全ての人のために、その死を完全に味わう」ことができたのである。