an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

主イエス・キリストの十字架を知る

 主イエス・キリストの十字架の磔刑に関する福音書の記述を熟読し、紀元前一世紀のローマの政治家キケロの十字架刑に関する証言(「最も重い罪」「最も残酷かつ残虐」「最悪かつ極悪、奴隷に対する拷問」)や、一世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスの証言(「最も惨めな死」)を読んだとしても、それらの知識はキリストの十字架に与えられている神の真理の啓示の理解と同じであるとは言えない(どうしたら神の御子の磔刑の呪いとその痛みを理解できるだろうか!)。それらの知識は重要であるとはいえ、イエス・キリストの十字架の死の本質を知るには十分ではない。

 絶対に必要なのは、信仰であり、見えない神の前で「私に示してください」という祈りである。この信仰による祈りがなかったら、いくら歴史的知識や文脈理解をもっていたとしても、また主イエスの死を映像化したもので心を痛めたとしても、使徒パウロの言う「十字架の言」の体験にはつながらないのである。

 逆に、私たち信仰者が初めて十字架に示されている神の愛を知った時、多くの知識を持たず、文脈の理解も心許なく、罪の自覚も表層的だったのではないだろうか。それでも主なる神は、聖霊を通して私たちの心の目の前に十字架に架けられたキリストを描き出し、その十字架から今も溢れ出る神の愛を示してくださったのである。

ガラテヤ3:1-2

1 ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。

2 わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。 

ローマ5:6-8(新改訳)

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 その時から比べると、現在私たちの知識は確実に増えてるだろうし、文脈理解も深くなっているかもしれないが、それでもその知識は不完全なものである。やはり信仰によって十字架に架けられたキリストのうちに「身を隠す」ことによってのみ、私たちの心は平安を見出し、私たちの知識は実を結ぶのである。