an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

木はその実でわかる

マルコ6:14-16

14 さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、

15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。

16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。

 人々はイエス・キリストが多くの人々の病を癒したり、悪霊を追い出したりしている見聞きし、「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い始めた。つまり主イエス・キリストが力強い奇蹟を行っていたのは、ヘロデ王が自分勝手な理由で首を切り落としたバプテスマのヨハネが「死者の中からよみがえって」主イエスのうちに働きかけているからだと思い込んだのである。

 この意見は、当時の人々が「復活」についてどんな考えを持っていたかがわかり(彼らはまだ主イエスの復活を知らなかった)、非常に興味深いと思う。人々は主イエス・キリストが知恵ある言葉で語り、多くの奇蹟を起こし、病を癒し、悪霊を追い出しているのを見て、その超自然な力にバプテスマのヨハネを見出し、バプテスマのヨハネがイエスとして顕れたと考えたのである。

 勿論、多くの人たちはバプテスマのヨハネを直接見て知っていたので、イエス・キリストが肉体的・外見的には別人であることも知っていたはずである。つまりここで言う「よみがえり」は、バプテスマのヨハネとそっくり同じ人物がイエスという人物として顕れたということではなかった。

 また少なくとも新約聖書の中には、バプテスマのヨハネが一度でも奇蹟を起こしたという記述はないので、ここでいう「よみがえり」とは、大勢の人々を悔い改めに導くほど力強く語っていたヨハネの霊が、主イエスの奇蹟を行う霊として顕れたという考えによるものである。

 逆に考えれば、もし人々がバプテスマのヨハネと主イエスの霊性に共通するものを見出せなかったとしたら、主イエスが「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきた」とも言いださなかっただろう。理不尽なことだが、例えば主イエスがエルサレムの宗教的・政治的権力の座を求め、貧しい者たちを搾取していたとしたら、たとえ奇蹟を行っていたとしても、人々は決して「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえって、主イエス・キリストのうちにその力が働いている」とは言わなかっただろう。ヨハネはそのような生き方はしていなかったからである。しかし確かに人々は、主イエス・キリストうちにその霊性の顕現を明らかに見出していたのであった。そして聖書の啓示を受けた信仰者は、それが神の御霊の働きであることを知っている。

使徒4:11-20

11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。

12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

13 人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、

14 かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。

15 そこで、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議をつづけて

16 言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。

17 ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。

18 そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。

19 ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。

20 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。

 71人の長老たちで構成されていたユダヤ人議会が、弟子たちのことを「イエスと共にいた者であることを認め」たのは、弟子たちが特異な身なりをしていたからではなかった。庶民と全く同じく、神学教育を受けていない「ただの人」であるのに、非常に大胆に民衆の前で語り続けていたからである。しかもその内容は饒舌に色づけられたこの世の知恵ではなく、ただ一つのこと、否、ただ一人のこと、つまり「十字架に架けられて死に、三日後に復活したイエス・キリスト」の御名を一心に語っていたからである。その印を見て、彼らのことを認めざる負えない、否定することもできないと判断した議会の権力者は、地上的権威を使い彼らの口を閉ざそうとした。

 主イエスはユダヤ人の祭司長や律法学者の「わたしたちの父はアブラハムである」という主張に対して、「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている」と言い、ユダヤ人の血統的立場を肯定したが、彼らが自分のことを殺そうとしていることについて、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。」と反論した。

ヨハネ8:37-40

37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。

38 わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」。

39 彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。

40 ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。

 つまり「自分たちはアブラハムの子孫である」と主張していたユダヤ人たちは、主イエスに対する殺意によって、実際には自らの主張を自らの言動で否定している、と主イエスに指摘されたのである。

 自分の血統や所属や功徳を主張し、それにより頼み、誇ることは個人の選択と責任の範囲だろうが、結局、判断の基準となるものはもっと本質的な霊性である。まさに「木はその実でわかる」のである。木はただ自分の実を結ぶだけである。それがいい実か悪い実であるかは、木自身ではなく、実を観察し、手に取り、味わう者が判断するのである。

マタイ12:33-37

33 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。

34 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。

35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。

36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。

37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。 

 主イエスは、「互いに愛し合うこと」がご自身の弟子であることの「普遍的なしるし」であると教えた。

ヨハネ13:34-35

34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。 

 「十字架の敵」としてではなく、使徒パウロのように「十字架の友」として歩み、「肉の働き」ではなく「御霊の実」を結ぶことを一心に求め続けよう。

ピリピ3:17-21

17 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。

18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。

19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。

20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

ガラテヤ5:19-26

19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、

20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、

21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、

23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。

26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。