an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

十字架による全く新しいアイデンティティー

ガラテヤ2:15-20

15 わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、

16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。

17 しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。

18 もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 

 「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではない」。この表現は、神の恵みの平等性と普遍性を説く使徒パウロの言葉に慣れている私たちには、驚くような言葉ではないだろうか。しかしこれもまた聖書の言葉である。

 「私たち」とは文脈からみて、ケパ(使徒ペテロ)やヨハネ、ヤコブ、バルナバ、そしてすべての「他のユダヤ人たち」のことである。そして「生まれながらユダヤ人」つまり宗教上の改宗者ではなく、種族として生粋のユダヤ人であることを「異邦人なる罪人」というカテゴリーに対置している。

 ユダヤ人パウロにとって「異邦人なる罪人」がどのような意味を持っていたかは、『エペソびとへの手紙』の中で明確な定義がある。

エペソ2:11-13

11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、

12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである  

 「無割礼の者」「イスラエルの国籍がなく」「約束された色々の契約に縁がなく」「この世で希望もなく神もない」「神から遠く離れていた」者のことを指している。

 これに対してユダヤ人、特にパウロのユダヤ人として生来のアイデンティティーは、以下の彼自身の言葉の中に強烈に書き記されている。

ピリピ3:5-6

5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 

6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

使徒22:2-3

2 パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。

3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。

使徒23:6

パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。 

使徒26:4-5

4 さて、わたしは若い時代には、初めから自国民の中で、またエルサレムで過ごしたのですが、そのころのわたしの生活ぶりは、ユダヤ人がみんなよく知っているところです。

5 彼らはわたしを初めから知っているので、証言しようと思えばできるのですが、わたしは、わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をしていたのです。

ローマ11:1

そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。 

ガラテヤ1:13-14

13 ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。

14 そして、同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった。 

  • モーセの律法に従って「八日目に割礼を受けた者」
  • イスラエルの民族に属する者

  • 十二部族のうちのベニヤミン族の出身

  • ヘブル人の中のヘブル人

  • 熱心の点では教会の迫害者

  • 律法の義については落ち度のない者

  • キリキヤのタルソ生れであるが、ギリシャ語しか話せないヘレニスト・ユダヤ人ではなく、ヘブライ語を話せるユダヤ人
  • イスラエルの教師ガマリエルのひざもとで律法について、きびしい薫陶を受けた者
  • ユダヤ教の最も厳格な派であったパリサイ派に属し、先祖たちの言伝えに対して、他の誰よりもはるかに熱心な者
  • その熱心さは、激しく神の教会を迫害し、荒しまわっていた程であった

 このような強烈なアイデンティティーを持っていたパウロはしかし、「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではない」と言った直後、以下のように告白している。

わたしはキリストと共に十字架につけられた。

生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

 つまり主イエス・キリストの十字架の死を霊的に自分のうちで体験することによって、「内なるキリスト」という全く新しい、いのちに満ち満ちた、栄光の望みにあふれるアイデンティティーに生きていたのである。

コロサイ1:27

神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。 

  このイエス・キリストの十字架の全てを革新する絶大な力によって、それまでにパウロが誇りとしていたユダヤ人としてのアイデンティティーを、「損」さらに「糞土」(σκύβαλον skubalon 排泄物、ごみ、犬に投げ与えるもの、などの意味)とまで言切っているのである。

ピリピ3:3-12

3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。

4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。

5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、

6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、

11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

 しかしこの新しいアイデンティティーの劇的変化が、以前の価値観との強烈な対立をもたらすことは、決して避けられない現実である。つまり、自分のうちにいますキリストのみを心から誇りに生き、以前の自分の誇りや頼りにしていたものを「糞土」と見なすとき、それらの以前の価値観が信仰者を「弱く卑しい者」「愚かな者」「世のちり」「人間のくず」と見なし、嘲笑と侮蔑の的とするのである。

Ⅰコリント4:9-13

9 わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。

10 わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。 

11 今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、

12 苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、

13 ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。 

 この相互的に緊迫した対立も、罪の清めと新生という素晴らしい霊的体験と共に、それぞれ程度の差こそあれど、日々自分の十字架を負って主イエスに従おうと願う信仰者に必ず伴う「十字架のしるし」である。

ガラテヤ6:14

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 

 

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