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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストの十字架の力

ガラテヤ2:19,20

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 

ガラテヤ6:14

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 

 現代のキリスト者の信仰告白において、イエス・キリストの十字架のわざはどのような地位が与えられているであろうか。首から下げる十字架のペンダントのように、シンボル的扱いをしていないだろうか。

「とりあえず『イエス様は十字架の上で私の罪のために死んで下さった』って証ししているから、周りの人は私がクリスチャンだと認めている」

「『十字架、十字架』っていつも言っているから、あの人は正統派のクリスチャン」

 しかし、私達罪びとがその重要性において、イエス・キリストの十字架のわざを誇張しすぎることは決してない。その凝集力、破壊力、そして革新力において、キリスト者の知識や経験の「及第点」は本来存在しないし、人間がそれをシンボル化してはいけないのである。

 全てがキリストのうちに凝縮され、全てがキリストと十字架につけられ、彼と共に葬られ、そして全てがキリストのうちに命をもつ。全ての被造物、あらゆる営みで、キリストの十字架を通らないものは存在しないのである。

 私達の霊的無知や戸惑いも、偽善や妥協、弱さや不安も、キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に葬られた。

 そして復活したキリストの命のうちに憩うのである。

 主よ、私達をこの真理の力のうちに今一歩、歩ませてください。

 

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