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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(56)ベエルシバ 誓いの井戸

生けるキリストを求めて(旧約聖書の中のキリスト) いにしへからの教訓

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創世記26:12-14

12 イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、

13 彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、

14 羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ。

15 またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。

16 アビメレクはイサクに言った、「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。

17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷に天幕を張ってその所に住んだ。

18 そしてイサクは父アブラハムの時に人々の掘った水の井戸を再び掘った。アブラハムの死後、ペリシテびとがふさいだからである。イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。

19 しかしイサクのしもべたちが谷の中を掘って、そこにわき出る水の井戸を見つけたとき、

20 ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。

21 彼らはまた一つの井戸を掘ったが、これをも争ったので、名をシテナと名づけた。

22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。

23 彼はそこからベエルシバに上った。

24 その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。

25 それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。

26 時にアビメレクがその友アホザテと、軍勢の長ピコルと共にゲラルからイサクのもとにきたので、

27 イサクは彼らに言った、「あなたがたはわたしを憎んで、あなたがたの中からわたしを追い出されたのに、どうしてわたしの所にこられたのですか」。

28 彼らは言った、「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので、いまわれわれの間、すなわちわれわれとあなたとの間に一つの誓いを立てて、あなたと契約を結ぼうと思います。

29 われわれはあなたに害を加えたことはなく、ただ良い事だけをして、安らかに去らせたのですから、あなたはわれわれに悪い事をしてはなりません。まことにあなたは主に祝福されたかたです」。

30 そこでイサクは彼らのためにふるまいを設けた。彼らは飲み食いし、 

31 あくる朝、はやく起きて互に誓った。こうしてイサクは彼らを去らせたので、彼らはイサクのもとから穏やかに去った。

32 その日、イサクのしもべたちがきて、自分たちが掘った井戸について彼に告げて言った、「わたしたちは水を見つけました」。

33 イサクはそれをシバと名づけた。これによってその町の名は今日にいたるまでベエルシバといわれている。 

 自分が苦労して獲得したものや自分のポジションを誰かに取られることは、性質の違いはあるものの、誰でも経験することだろう。健全な競争によってそれが起こるのならば納得できるのだが、それが嫉妬や逆恨みなどの理不尽な動機から起こったことだと知るのは、とても不快なことである。そしてそこで正義を追求しても望むようにはいかないことが多いのではないだろうか。イタリア語に「Ingoiare il rospo(直訳:ヒキガエルを飲み込む)」という慣用句があるが、まさに非常に不愉快な思いをひたすら我慢して受け入れる他に道がない場合が多い。そしてそこには、多くのストレスが生じる。

 信仰経験豊かなキリスト者であっても、理不尽な状況に追いやられると感情的になってしまい、どうしても人間的・地上的視点でしか見れなくなることがある。人間の妬みや嫌がらせ以上に、この世の君の邪悪な動機があることを忘れてしまい、背負い込まなくていいはずのストレスを背負って、争わなくてもいい戦いに無駄な労力を使ってしまうのである。

 イサクがペリシテびとの取った態度は大変参考になる。ペリシテびとはイサクが神の尋常でない祝福を受けていることを妬み、アブラハムのしもべらが掘ったゲラルの井戸(複数)を土で埋め、ふたをしてしまった。ここでイサクは、「自分の父のしもべが堀った井戸をなぜ埋めたのか」とアビメレク王に詰め寄ることもできたが、アビメレクの要望通り、そこから離れ、ゲラルの谷のほうへ移住した。そこでイサクのしもべたちは、ペリシテびとが埋めてしまった谷の井戸(複数)を再び掘り返し、水が再び湧き出たので、イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。

 しかしゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と主張し、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセク(「争い」という意味)と名づけた。また違う井戸を一つ堀ったが、そこでも争いが起きたので、シテナ(「敵意」サタンと同じ語源)と名付けた。

 イサクは当然、父アブラハムがつけた名前でこれらの井戸を呼び続けたかったことだろう。しかし人間の強欲が、その名を変えることを強いた。それはまた後の世代のための教訓としての意味もあったのだろう。

 イサクはさらに移動し、また一つの井戸を掘ったが、そこでは争いが起きなかったので、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」という思いを込めて、レホボテ(「広い場所」)と名付けた。

 そこからさらにべエルシバに移り、そこで主なる神が顕れ、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」という、神が父アブラハムに対して誓った約束の言葉を受けた。イサクはその神の約束のゆえ、そこに祭壇を築き、主を礼拝し、そこに天幕を張り、しもべたちは一つの井戸を掘った。そしてその井戸をシバ(「誓い」)と名付けた。

 この井戸の名前は、厚顔無恥なアビメレク(「われわれはあなたに害を加えたことはなく、ただ良い事だけをして、安らかに去らせたのですから、あなたはわれわれに悪い事をしてはなりません」)と結んだ和平協定よりも、さらに重要な意味をイサクが与えていたと私は思う。そう、この世の無益な争いと煩いの中で、イサクは主なる神が自分に顕れ、父アブラハムに対して誓った約束を自分にも再び語ってくださったことを覚え、「誓い」という名前を付けたのだろう。

 カナンの地を襲った飢饉のゆえに、エジプトに下って身を守ろうという誘惑を受けていたイサクは、主の約束の言葉によって守られ(創世記26:1-6)、留まったその地でアビメレクが妬むほどの祝福を受けた。

 しかしイサクが、争いがなかったレホボテにとどまらず、そこからさらにべエルシバまで行って井戸を求めたのは、イサクがただ単に地上的な平安や祝福を求めていたのではなく、信仰によって生き抜いた父アブラハムの神自身との交わりを求めていたことを暗示しているといえないだろうか。そしてベエルシバには、地上の権力や欲望と共有するものは何もない。主自身と主の御言葉がすべてなのである。

 キリスト者にとっての「ベエルシバ 誓いの井戸」は、十字架に架けられた御子イエスである。そこではあらゆる欲望や争いが十字架によって葬られ、御子による新しい契約が結ばれた。

 そして御子イエスは、私たちの魂にとって「永遠に尽きることのない命の水の泉」である。

詩篇36:7-9

7 神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、

8 あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。

9 いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。 

ヨハネ7:37-39

37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

黙示録7:14-17

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。

16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。

17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」