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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

蛇のように賢く、鳩のように純真であれ(1)

マタイ10:16-22

16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。 

17 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。 

18 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。 

19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。 

20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。 

21 兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。 

22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 

  福音宣教に弟子達を遣わすにあたって、イエス・キリストは一つの前提をシンボルを使って啓示している。その前提はあまりにも厳しいものである。

わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。

 主イエスは、「あなたがたをライオンのように造り変え、オオカミの中に送り出す。あなたがたは勇ましく、強いから勝利を得るだろう」とは言っていない。「羊」というギリシャ語は集合名詞であり、複数はいるが一つの群れのイメージであるのに対し、オオカミは複数のオオカミがそれぞれ個別に獲物を狙っているイメージである。あまりにも、危険で無防備な前提ではないだろうか。

 しかし、冒頭の引用句の中にはもう一つの前提が啓示されている。それは、力強く、栄光に満ちたものである。

語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。 

 これは聖霊の内住と導きを示している。聖書に親しんでいる人はすぐに気付くであろう。この啓示が、パウロが語っている真理と共通していることを。

ガラテヤ2:19,20a

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 

20a 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

 キリストと共に十字架につけられる体験をした者のうちには、古い自我の代わりに、復活したキリストが聖霊を通して生きているのである。だからこそ、古い自我の代わりに、聖霊が導き、語るべきことを語るのである。何という力強い前提だろうか。

 しかし、この神の働きによる栄光に満ちた前提も、私達信じる者の責任を免除するものではない。実際、主イエスは続けて言っている。

だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。

 「鳩のように無垢になれ」(岩波翻訳委員改訳)「鳩のように純真であれ」(塚本訳)鳩は、一般的には平和のシンボルと知られているが、主イエスは「無垢さ」「純真さ」「素直さ」のシンボルとして引用されている。

 邪悪で罪深い終わりの時代にあって、聖霊の清めによる「無垢さ」「純真さ」「素直さ」を求めることは、この世と共に裁かれないためには不可欠である。しかしそれと同時に、「蛇のように賢くあれ」とも教えられているのである。

 シンボリズムとして非常に意味深い出来事が、一月末にローマであった。教皇と共にいた子供たちが放った純白の鳩が、待ち構えていたカモメやカラスの餌食になってしまったのである。

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 このように、終わりの時代に生きる「純真さ」は、「蛇のような賢さ」で防備されていなければならないのである。

 しかし「蛇のように賢く」とは、どのような意味だろうか。聖書において「蛇」は非常にネガティブなシンボルであり、エデンの園でエバを誘惑したのも「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も狡猾」であった蛇であったし、黙示録に啓示されている「年を経た蛇」は悪魔のシンボルである。

黙示録12:9

この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 

  また使徒パウロはコリントの信徒たちを思い、このような言葉を書き送っている。

Ⅱコリント11:2,3

2 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。 

3 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。 

  主イエスは「蛇」のように悪巧みを用いて狡猾に生きることを勧めているのだろうか。それでは、「純真さ」「素直さ」と相反することになってしまう。

 それでは、「キリストに対する純情と貞操」を失わせる「蛇のように狡猾な」在り方でなく、それを大切に守り、失わないようにするための「蛇のような賢さ」とは、一体どんなことだろうか。

 

(2)に続く