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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

牧師の本質

田中信生 権威主義 : 村上 密 Blog

 これは実に忌々しい事態である。

 記事の中で説明が必要であると思った点がある。「万民祭司」のコンセプトは、プロテスタントの教会だからというより、新約聖書自身が主イエス・キリストを信じる者すべてを「キリストの祭司」としている、という啓示によるものである。

Ⅰペテロ2:5

この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。

Ⅰペテロ2:9(新共同訳)

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 イエス・キリストは大祭司、信徒は祭司、という関係とは多少異なるが、キリストは私達の「善き羊飼い」(冠詞つき)であり、信徒はすべて彼の羊である。

ヨハネ10:11,14-16

11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。 

14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 

15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。 

16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。 

 それでは所謂「牧師」と呼ばれている人は、一体何ものなのだろうか。「羊」が「羊飼い」になれるのだろうか。否、主イエスの「羊」でなかったら、本物の「羊飼い」にはなれないのである。善き羊飼いであるキリストが、失われていた羊らの救いのために「世の罪を取り除く神の子羊」となって自分の命を捨てたように、キリストの従順な羊でなければ、「羊飼い」の務めは決してできないのである。

 肩書や職業の問題ではない。善き羊飼いであるキリストが羊のために良い草ときれいな水があるところに羊を導くように、御言葉を通してキリストの羊らに霊的糧を備え、養うものが「牧師」である。自分が望む糧を無理矢理羊らの口に突っ込むのではない。羊の健康状態に従って、最適な草地へ優しく導き、羊が自分で食べている間、外敵が襲ってこないか警戒しているのが彼の務めである。

 善き羊飼いはただ一人であり、私達は皆彼の羊である以上、善き羊飼いを愛し、彼に従い、彼がすることを見習い、彼に似た分だけしか、羊は「羊飼い」にはなれないのである。

ヨハネ21:15-17

15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 

16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 

17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。  

 

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