an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

羊飼い

ルカ23:35

民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。 

Ⅱコリント5:21

神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 

ガラテヤ3:13

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

 主イエス・キリストは、人々から「メシア」「神の子」「王」「教師」などと呼ばれたりすることに執着することはなかった。むしろ、父の御旨に従い、それを完成するために、「罪」となり「呪い」となって十字架の上で死んでくださった。それは、全て私達「罪びと」のためである。

 イエス・キリストの十字架を説きながら、自分の立場や肩書に執着し、それらを自尊心のために利用することは、恥ずべき卑しい行為である。

ヨハネ10:11-14

11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。 

12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。 

13  彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。 

14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 

 羊のために命を捨てるもの、羊をよく知っているもの、羊を養うものが羊飼いなのである。自分を「羊飼い」だと思っている雇人ではない。