読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

什一献金について(6)マラキ書

マラキ3:6ー12

6 主なるわたしは変ることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。

7 あなたがたは、その先祖の日から、わが定めを離れて、これを守らなかった。わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろうと、万軍の主は言われる。ところが、あなたがたは『われわれはどうして帰ろうか』と尋ねる。

8 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。

9 あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。

10 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

11 わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。

12 こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。 

 旧約聖書全三十九巻の最後に配置されたマラキ書のこの個所は、什一献金を要求する時に必ず引用される聖句である。「什一献金は神様のものです。献金というより返金です。だから什一献金に忠実でない人は、神の物を盗んでいるとみなされ、祝福どころか呪われてしまいます。」「信仰をもって什一献金を捧げ、神様が天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたに注ぐか否かを試してみなさい。」といった具合である。読者の方でも、このような言葉が教会の講壇から語られるのを、一度は聞いたことがある方は少なくないのではないだろうか。

 しかしこのマラキ書のこの個所を什一献金の教えの根拠とすることに、果たして正当性はあるのだろうか。キリストの恵みの福音宣教の一部として語られる聖書的根拠はあるのだろうか。

 まず第一に、聖書の全ての聖句は霊的解釈・適用をする前に、文脈に沿った読みをするのが絶対的な基本である。今回のマラキ書を例にとって説明するなら、まず第一に聖霊が預言者マラキを通して伝えようとした対象を考慮する必要がある。ここでは、「主なる神」が「ヤコブの子らよ」と言って、七十年間のバビロニア捕囚を終えて約束の地に帰還していたイスラエルの民に語りかけているのである。つまり神の呼びかけの対象は、第一次義的には当時のユダヤ人であった。「先祖の日」「わが定め」「わたしに帰れ」という表現からもハッキリと理解できる。

 また「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。」という命令で解る通り、「わたしの宮」「食物」「十分の一全部」「わたしの倉」という表現によって、当時の神の民が律法に基づいた神殿における儀式に生きていたことが読み取れる。実際、モーセの律法には以下のように命じられている。

レビ27:30

地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。 

申命記12:5-7;11-14

5 あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまいを尋ね求めて、そこに行き、

6 あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物と、誓願の供え物と、自発の供え物および牛、羊のういごをそこに携えて行って、

7 そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない。これはあなたの神、主の恵みによって獲るものだからである。 

11 あなたがたの神、主はその名を置くために、一つの場所を選ばれるであろう。あなたがたはそこにわたしの命じる物をすべて携えて行かなければならない。すなわち、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物およびあなたがたが主に誓ったすべての誓願の供え物とを携えて行かなければならない。

12 そしてあなたがたのむすこ、娘、しもべ、はしためと共にあなたがたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。また町の内におるレビびととも、そうしなければならない。彼はあなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないからである。

13 慎んで、すべてあなたがよいと思う場所で、みだりに燔祭をささげないようにしなければならない。

14 ただあなたの部族の一つのうちに、主が選ばれるその場所で、燔祭をささげ、またわたしが命じるすべての事をしなければならない。

 実際、十分の一は神が祝福を約束されていたイスラエルの領地内で得られた地の産物を主に対象にしており、金銭によるものではなかった。そしてその地の産物を十分の一として捧げる場所は「主が選ばれた場所」、つまり「エルサレムの神殿」に限定されていたのである。だからこそ「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。」と命じているのである。(什一献金について(1) - an east windowにおいて詳細を検証した。)

 また11節において、十一の戒めを守ることによって約束されている「あふるる恵み」も、地の産物が守られるという物質的性質のものであったこと啓示されている。

わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。

 十一を捧げる場所として定められていたエルサレムの神殿も、十一を受け取る権利を唯一与えられていた祭司階級のレビ族が任職していない現在、そして何より、「律法の行いによる義」つまり「律法を行うことによって祝福され、律法を行わないことによって呪われる」という束縛から、イエス・キリストの十字架の贖いによって解放された現在、マラキ書のこの個所を「什一献金の教え」と「それを尊守することによって神の祝福を試すこと」の根拠とすることもできないのである。一人の人間が神の祝福を受けることができる唯一の根拠は、イエス・キリストの贖いに対する信仰のみだからである。

ガラテヤ3:8-14

8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。

9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。

10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。

11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

12 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。

13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。 

 このような福音を基にマラキ書を解釈すると、マラキ書のこの箇所から聖霊が語りかけてくるメッセージは、什一献金などでは全くなく、むしろ6,7節にあるように、

  • 神の不変性:「主なるわたしは変ることがない」
  • 罪の裁きからの解放:「あなたがたは滅ぼされない」
  • 悔い改めの促し:「わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろう」

という「福音、良き知らせ」である。イエス・キリストによって、「天の窓」はもうすでに開かれ、「あふるるばかりの恵み」はもうすでに豊かに降り注がれ、彼を信じる者はもうすでに「祝福された者」ととなえられているのである。

エペソ1:3-5

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 

 このような福音の前提があるからこそ、 イエス・キリストによって贖われ主なる神のものとなった私達の全てを、喜んで神に捧げることができるのである。

ローマ12:1,2

1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

 

)へ続く