an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「愛は神なり」という偶像

 「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:16)という簡潔かつ深遠な啓示がある。ギリシャ語では、神に定冠詞がついているが、「愛」という単語にはついていない。つまり人間の観念では定義化したり限定しえない神の無限の愛を啓示している。

 しかし、終わりの時代のクリスチャンの中で、「愛は神なり」という観念、要するに表面的には聖書の啓示に似ているが、実質は異なる愛についての観念を持っていたり宣べ伝えている人に最近よく出会う。特別新しい現象ではないのだろうが、省察を促す重要なことだと思う。

 「愛は神なり」という観念は、人間が主観的、理念的、感情的、情緒的に「これは愛だ」と感じたりすることを「神」もしくは「神から来るもの」としてしまうことだ。しかし、私たち人間が「感じる」愛情やそれに似たような情感のすべてが神から来ることでないことは明らかである。激しく湧き上がる情愛が、非常に罪深い場合も十分にあり得るのは、自分に正直な人ならば、経験上納得できる現実である。特に人間の心は自分の都合の良い様に解釈しがちだ。

 エレミヤ17:9

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 

Ⅰヨハネ2:15-17

15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。 

16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。 

17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。 

 このヨハネの聖句は、人間の心を激しく篩いにかけるので、イエス・キリストの愛を受け入れていない心から必ず反発を受ける。「厳し過ぎる」「大げさだ」「これじゃ、だれも生きていけない」「神は私たちの弱さを知っているはずだ」と。

 このような人間の心の危うさを知っているが故、神自身がその無限の愛を神の独り子イエス・キリストの死によって明らかに示してくださった。

 ヨハネ3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 

ローマ5:8

しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。  

ヨハネ15:13

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

 この神による愛の啓示が御子の死によってなされたその恵みによってのみ、私達罪びとは、神の無限の愛を本当の意味で知ることができたのである。

Ⅰヨハネ3:16

主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。 

 このイエスの死を基礎としない「愛」の観念は、「神の愛」とは関係の無いものである。人間の心の一番崇高な要素も、十字架を通らなければいけないのである。ペテロが過越しの祭の食事の時に示した「愛」は、偽りだったのだろうか。ペテロは真剣だった。それでも彼のイエスを思う「愛」は、十字架の死を通らなければならなかった。

「愛の使徒」と呼ばれたヨハネが、同じ手紙を以下のように閉じているの大変は意味深い。

Ⅰヨハネ5:21

子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。 

 罪びとによれば「愛」さえも偶像、つまり神以外のもので神の位置に座する「何もの」か、になり得るのである。