an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

家の外、家の内

マルコ3:20,21

イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。

マルコ3:31-35

さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

ルカ8:21

「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」

 外国人を含め、非常に多くの人々が遠い所からイエスの言葉を聞き、癒されるために押し寄せてきていた。その群衆によってイエスと弟子たち、またイエスのそばで彼の言葉を聞いていた人々は、食事する時間も取れないほどであった。そのあまりの熱心さにイエスの母と兄弟たちは、気が狂ったのだと判断した。新改訳によると、身内の者たちは世間の噂を気にしてイエスを連れ戻すために来た、とある。一方、口語訳によると、彼ら自身がイエスのことを「気が狂った」と判断し、取り押さえに来た、とある。カトリック教会の教えでは、イエスの母マリヤは半神格化され、現実的に礼拝の対象になっているが、聖書は彼女も一人の罪びとであり、不信仰な心も持っていた事を明らかにしている。また、兄弟たちもイエスのことを信じていなかった(ヨハネ7:5)。また親戚だけでなく、多くのユダヤ人たちもイエスの言葉を聞いて彼のことを「悪霊につかれている、気が狂っている」と考えた。イエスが真理を語っていたにもかかわらず、人々はへりくだって御言葉を聞くどころか、自分勝手にイエスを冒涜した。それだけでなく、ほかの人が御言葉を聞くことを妨げようとすらした(ヨハネ10:19,20)。

 しかし全ての人が不信仰ではなかった。大勢の人がイエスを囲んで座って、御言葉を熱心に聞いていた。その群衆によって、母と兄弟はイエスのそばに近寄れなかったので、彼らは人を遣わし、イエスを外に呼び出そうとした。親族の権利によってイエスに命令したのである。同じ状況にいたにもかかわらず、中風の人の4人の友達が取った行動とは対照的である(マルコ2:1-4)。彼らは不可能な状況を前にあきらめたり、人に頼んでイエスを外に呼び出そうとはしなかった。信仰によってなんと屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスが病気を癒すことが出来るという信仰と、癒してほしいという強い願望が共に働いたのである。

 「イエス・キリストは救い主である」「彼は私たちの罪を赦す事が出来る」という知識があったとしても、「救われたい、罪を赦されたい」という願望がなかったら、信仰の実現を見ることが出来ない。しかし神は私たちにその願いさえも与えてくださる。

ピリピ2:12,13

わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 

 多くの人は、信仰によって「中に入り」イエスのもとに行き、御言葉を聞いたり、へりくだって恵みを求めたりせずに、「外に立って」自分のありもしない権利を神の前で主張して、「外に出てきて姿を見せろ」と命令したりする。しかし、イエス・キリストが喜ぶのは、私たちがへりくだって彼のもとに行き、御言葉を聞き、それを実行することである。そして私たちがイエスを信じ、受け入れるならば、イエスは私たちに神の子としての権利と地位を与えてくださるのである(ヨハネ1:12,13)。さらにイエス・キリストのうちには、あがないがあり、罪の赦しがある(コロサイ1:13,14)永遠の命がある(Ⅰヨハネ5:11)彼の内には全ての満ち満ちた神の富がある(コロサイ2:10,11)。

 私たちは弱く、小さな存在だが、もしキリストのうちに宿るなら、神は私たちを祝福してくださる。これこそ本当の知恵である。

箴言30:24-28

この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。 

ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。 

岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。 

いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。 

やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。