an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神は愛なり

主なる神にとって、自分達の利益や栄光ばかり考えているような我々人間と共にいる「必要」が本当にあるのだろうか。三位一体の関係において全てに満たされている方、完全に独立自立している方、無から有を呼ぶ創造主なる神、全ての所有者、全知全能の神に何か欠けているものがあるのだろうか。救われた罪人らの集まりの賛美が「必要」なのだろうか。自分の事を理解してくれる人々が「必要」なのだろうか。

神はこの宇宙を創らなければならない「必要」は全くなかった。まして自らの罪に溺れている人間や、神を無視し、また憎んでいる人々の所に肉体をもってへりくだり、十字架の上で彼らの身代わりになって死する「義務」もなかった。罪びとを救う意志をもってこの地上に来られた時も、全て一人で何もかもできたはずである。主が一人で行動することを選んだとしても不思議ではない程、弟子たちはほとんど何も理解していなかった。主イエス・キリストにとって、救いの福音を伝えるのに、宗教家、神学者、牧師、教師も「必要」ではないし、その任務をこれらの人々に委ねる「義務」もない。

「必要」によってでも「義務」によってでもなかったら、何故神はご自分をあらわすのであろうか。それは「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:16)からである。神の本質が愛だから、思考、感情、行動のすべてが愛に基づいているのである。人間は、倫理的思考を伴わない行動も「愛」と呼んでしまうが、神の愛とは神の性質の全て、正義、神聖さ、全知全能、など、その全てをもって愛なのである。だからこそ、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)のである。

「神が愛である」ことは、三位一体の神でなければあり得ない。否、むしろ三位一体の神であるからこそ「神は愛」なのである。三位一体の真理を伴わない一神論(神は唯一の神である、という考え)が、人間に対して非常に断罪的な神か、逆に隔絶した無関心の神を生み出しているのは、それなりに根拠がある。