an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。

マタイ27:46

「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」

 

救い主が呪いの十字架の上で叫んでいる。

 

しかし彼の口からは、自分を十字架に架けた宗教家達を罵倒する言葉は決して出てこない。

嘲笑する権力者達に命乞いもしない。

自分を見捨てた弟子達を叱責することもない。

むしろ、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈った。

 

7万2千以上の天使らの助けを求めることもない。

 

「みんな私を見捨てた。神さえも。」

自己憐憫の言葉も口からでない。

 

ただ父なる神に問いかけていた。

「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」

 

神の子イエスはその理由を知らなかったのだろうか。

彼は他の誰も理解し得ないことを知っておられた。彼自身が天地創造の前から計画していたのだから。

 

アレオパゴスの哲学者達のようにレトリックな問いに酔いしれていたのだろうか。

 

キリストはこの時、十字架の上で律法に書かれている呪い、律法を「すべて」行わない者に定められていた呪いを全人類のために負っていたのだ。

 

ガラテヤ3:13

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

 

その呪いは申命記28章に書かれていて、読んでいても辛くなるような恐ろしいものである。誰がそれに耐えられるだろうか。誰が律法のすべてを守り行うことができるだろうか。

28節 また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう。

34節 こうしてあなたは目に見る事柄によって、気が狂うにいたるであろう。 

65節 その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。主はその所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせられるであろう。

66節 あなたの命は細い糸にかかっているようになり、夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう。

67節  あなたが心にいだく恐れと、目に見るものによって、朝には『ああ夕であればよいのに』と言い、夕には『ああ朝であればよいのに』と言うであろう。 

 

罪を知らないキリストが、律法を守らないがゆえに与えられる全ての罰、肉体的苦痛、精神的混乱と衰弱を十字架の上で背負っていたのだ。

命の君であるイエスの命が、細い糸にかかっているように木にぶら下がっていた。

存在するものは苦痛と不合理、恐怖と暗闇だけの状態。

来るべき一秒が耐えられないほど重く、過ぎ去った一秒が恐ろしく無意味な時間。

そのすべてをイエスは背負ってくださった。

 

十字架の上で息を引き取る寸前、こう祈られた。

ルカ23:46

「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

 

この祈りは、逃げ場のない不安や衰弱、無意味と苦痛の中で苦しんでいるすべての人に対する大いなる慰めである。

 

「まずやらなければいけない」ことなど何もない。

「まず理解しなければいけない」なんて嘘である。

 

何もできないまま、何もわからないまま、ただ幼子のように父なる神に自分のすべてをゆだねるだけである。

 

キリストがそれでいいとしてくださったのだから。