教会の政治形態とその霊(2)
そもそも新約聖書は、「教会」をどのような存在として啓示しているだろうか。以下、教会の本質に関する基本的啓示を列挙してみる。
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教会はキリストのものであり、ある特定の人間の所有物ではない。そしてキリスト自身が教会を建て上げ、成長させるのであって、人間の努力によるものではない。
マタイ16:18
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
- 教会はキリストに愛されている唯一の花嫁である。
エペソ5:25-27
25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
Ⅱコリント11:2
わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。
- 教会はキリストの体である。ピラミッド型のヒエラルキーによって、キリストの体が機能していると思うのは、聖書的ではない。
Ⅰコリント12:27
あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
コロサイ1:16-18
16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
- 神自身が、その恵みによって罪びとを救い、全ての信徒を「キリストの祭司」としてくださった。
Ⅰペテロ2:5
この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
- 聖霊は、信徒の中から個別にある人々を霊的監督者として召してくださる。それは、権力者として上に立つ者ではなく、キリストの目的である「教会を建て上げる」任務に仕える働き人としてである。
使徒20:28
どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。
エペソ4:11-13
11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
- 教会は、この世において真理を体現する存在である。
Ⅰテモテ3:15
万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。
「柱」という単語が単数形であることから、使徒パウロは建物の屋根を支える複数の柱ではなく、ローマにあるトラヤヌスやマルクス・アウレリウスなどの偉業を讃えるらせん状のレリーフが施された「記念柱」のことを暗示しているのではないかという解釈がある。これらの記念柱が、当時のローマ帝国の皇帝が成し遂げたことを記録し、公に示しているように、教会はキリストの真理をこの世の示す「柱」である、という意味である。
教会の本質を表す上述の啓示を踏まえたうえで、使徒達が地域教会に対して複数の長老達による合議的体制を取り入れていたのは、もし地域教会を構成する一人一人の信徒がこれらの前提をしっかり踏まえていれば、最もバランスのとれた形態であり、教会が霊的に成長するのに適合したものだからではないかと思う。
(3)へ続く