an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(30)神から与えられる至福

ローマ4:6-8

6 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、

7 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。

8 罪を主に認められない人は、さいわいである」。 

ヤコブ1:17

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

 世界には色々な「幸福観」があると思うが、ここで啓示されている「幸福」は、まさに「至福」と呼ぶにふさわしい、他の何者も与えることができない、永遠の神から直接与えられる幸福である。

 それは物質的繁栄とか社会的地位の向上とか、外部の要素からくるものではない。あなたが誰で、どのような環境に生きていようと、そしてどのような過去を持っていようと、それらの要素とは全く関係なく、あなたと生ける神との関係の中で与えられる幸福である。

 「神が業によらずに義とみなした人」「その不法がゆるされ、その罪が覆い隠された人」「その罪を主が認めない人」(岩波委員会訳)

 人ではなく「主なる神が」、その人が犯した全ての不法と罪を、御子イエス・キリストの身代わりの死によって赦し、取り除いたと宣言してくださる、その幸福。

 他人に知られまいと心の中に深くしまい込み、覆い隠そうとしてきた罪。自分で自分のことを何とか赦し、ありのままの自分を受け入れようとしても誤魔化すことができないでいた過ち。一番近い人も知らない、いや、自分でさえも理解できない心のうめき。

 そのすべてをそのまま受け取ってくださり、捨て去ってくださり、それらすべてを「見よ、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」と言ってくださる神から与えられる深い深い平安。

 「行いがなくても」。高い代償を払って何かをしなければ手に入らない幸福ではない。しかし、安っぽい、無価値で虚しい幸福でもない。その代価はとてつもなく高く、誰も払うことはできなかった。御子イエス・キリストの命が、私たちの幸福の代価である。私たちは、その御子に信頼するだけである。

イザヤ51:11

主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。