へブル9:14
(新共同訳)
まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
(岩波訳)
ましてや、永遠の霊によって自らを傷のないものとして神に献げたキリストの血は、私たちの内奥の意識を、生ける神に勤めを果たさせるべく、死んだ業から清めるであろう。
キリストは、自らを傷の無いものとして、「永遠の霊によって」父なる神に奉げた。つまり十字架の死は、イエス・キリストが地上で活動している時、ユダヤ人宗教家との関係が悪化して偶発的に起きた悲劇ではなく、「永遠の霊」つまり万物が創造される前から存在し、時間や空間によって変わることのない神の霊の本質「御子の犠牲の霊」が、肉体をもったイエスによって完璧に体現したことを啓示しているのである。
同じキリストの霊によって、アダムは「神のかたち、神の似姿」に造られ、命の息(נשׁמה neshâmâh 息吹、魂、霊)を与えられ、生きた者となった。
創世記1:26-27
26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
創世記2:7
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
しかしアダムは自らの中に宿る霊に背き、愛に基づく自己犠牲の霊よりも、自ら神のようになることを選んだ。ある意味、彼の中に宿っていたキリストの霊は、このアダムの選択によって疎外され、「十字架に架けられた」のである。
旧約時代の神のしもべたちは、信仰によって、自分たちの欲望の声よりも、自分たちの中に宿るキリストの霊を通して語る神の声に耳を傾けた。そのキリストの霊は、しもべたちにキリストの苦難とそれに続く栄光を証ししてした。
Ⅰペテロ1:10-11
10 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。
11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。
預言者たちの中にいたキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を証し、それを書き残すように預言者や筆記者を霊感を与え、書き記されたのが旧約聖書の書物であり、当然キリストの霊によってキリストを証しする目的で書かれたものは、それを読み調べる者に、キリストを証しし、彼に対する信仰を与え、その信仰はキリストを信じる者に魂の救いに至らせる。
Ⅱテモテ3:15-16
15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
ここで使徒パウロがいう「聖書」とは、ギリシャ語訳の旧約聖書のことで、その聖書は、「すべて神の霊感を受けて書かれたもの」(theopneustos 神という意味の「セオス(theos)」 と、息という意味の「プネウストス(pneustos)」で構成されており、「神の息吹」つまり霊である神の命と智慧よるものを意味する。)で、キリスト・イエスについて証しし、彼に対する信仰を与え、救いに至る知恵を与えることができる書物だと啓示されている。
そしてそのキリストの霊によるキリストを証しする働きは、旧約聖書の時代で終わったのではなく、イエス・キリストの復活後、信じる者に与えられる聖霊によって引き続き行われているのである。
ヨハネ15:26
わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
ヨハネ16:13-15
13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
そしてキリストの霊によって生きる者は、自己願望の実現ではなくキリストだけを求め、キリストが全てとなり、キリストのうちに自分を見出すことだけを求めて生きる。それは、自分の中に宿るキリストの霊に「捕らわれている」からである。
ピリピ1:21
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
ピリピ3:7-14
7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。