創世記3:21-24
21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
蛇の誘惑によって罪を犯してしまったアダムとエバが、自分達の恥を覆うためにイチジクの葉で作った腰巻の代わりに、主なる神は皮の着物を備えられた。原文においては、一頭(もしくは一匹)の動物が屠られ、その一枚の動物の皮からアダムとエバのために二着の衣が作られ与えられた、というニュアンスである。
神はすべての被造物の創造を終えた時、それらを見て「はなはだ良い」(創世記1:31)と評価された。その神の調和と命に満ちた被造物の中から、一頭(もしくは一匹)の動物を選びだし、人間が自分では覆うことができなかった「恥」を覆うためにわざわざ屠られたのである。
この屠られた動物は、『世の罪を取り除く神の子羊』として十字架の上で命を捧げた御子イエス・キリストの予型である。また「皮の衣」は、その御子の死と復活によって信じる者に与えられる「神の義」を暗示している。
イザヤ61:10
わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
実際、この神自身が用意された皮の衣によって、アダムとエバは恐怖と恥から部分的にせよ解放されたのである。彼らは自分達の衣を見るたびに、自分達の恥のために動物の血が流され、神が自分達を憐れんでくださったことを意識しないではいられなかったはずである。
聖書には直接書かれてはいないが、アダムとエバがエデンの園から追放され、園の東に住むようになり、カインとアベルを生んだ後、自分達の子供の裸を覆うために、今度は自分達で動物を屠らなければならなかったはずである。私はアベルが「信仰によって」動物の供え物を神に捧げたのは、「自分の罪の恥を覆うために命が犠牲になった」という畏敬の念が心に深く刻まれていたからだと思う。
これはキリストを信じる者が、決して失ってはいけない心の在り方ではないだろうか。
Ⅰヨハネ1:8-10
8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
ローマ12:1
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
へブル12:28
このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。