an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストにおいて(7)井戸端革命

ヨハネ4:11-15

11  女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。

12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。 

13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 

14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 

15 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。 

ヨハネ4:28,29

28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、 

29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。 

  この有名なイエス・キリストとサマリヤの女の会話は、時間にしたら五分程度、否もっと短かったかもしれない。しかし、この引用した二箇所の聖句に、サマリヤの女の価値観の根源的な変革が読み取れる。会話を始めた時の彼女の意識の中心は、あくまで自分自身であった。「あんたは私に生ける水とやらをくれるって言っているけど、その水をくむ物すら持っていないじゃないの。どうやって、私にその水をくれるっていうのさ」「あんた、わたしが渇くことがなくて、永遠の命に至る水とやらをくれるって、そんなにしつこく言うんなら、なんだかよくわかんないこと言ってないで、はやく私にそれをちょうだいな。ここへわざわざ来なくてもいい様にさ」(私がもし脚本家だったら、こんな風に脚色するかもしれない。)

 彼女の意識の中心はあくまで自分自身で、自分の水瓶が一杯になり、自分で苦労することなく、自分の喉の渇きが癒されることが第一であった。しかし、メシヤだと名乗る男を知って、自分が水を汲みに井戸へ来たことも、水瓶を満たすことも、否、その水瓶さえも放っておいて、メシヤのことを伝えに自分の町へ走って行ったのである。そして彼女の証しは、疑いがまだあったにもかかわらず、メシヤのことを伝えている。彼女の関心はもはや自分自身ではなく、イエス・キリストであった。自分がどれだけ驚き、また満たされたかを語るのではなく、メシヤに関して理解した限りのことをそのまま伝えた。だからこそ、スカルの町の人々は、サマリヤの女の所にではなく、「ぞくぞくとイエスのところへ行った」(30節)のである。

ガラテヤ2:19,20

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 

 この真理を体験し、この真理に日々生きる者は幸いである。その人は「自分の水瓶を満たすこと」に対する固執から解放されている。キリストという「生ける水が湧き続ける泉」の中に生きる恵みに安息を得ているからである。「私はたとい空っぽだとしても、キリストが満ち満ちているから感謝です。私は彼の中にいます」「私でなく、キリストが全てです」と証しできる人は本当に幸いである。