an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

まず行って

 教会に通いながらも、教会について痛烈の批判する女性のサイトにたまたま出会った。以前の私だったら読みもしなかっただろうが、今回は彼女の主張を読んでみた。使われている表現に関しては同意しかねるが、その主張には納得できる点が多く見かけられた。この女性がなぜ教会に残っているのか、彼女は本当には何を求めているかがなんとなく理解でき、また匿名でしか批判できないその鬱積した閉塞感も伝わってきて、居たたまれない気持ちになった。似たような状況にいる人がどれだけたくさんいるだろうか。

「リバイバル」を求めること自体はいいことだと思うが、このような魂と向き合うことなくして、真のリバイバルなど訪れるのか、はなはだ疑問である。むしろそのような強引で無神経な「探究」が、これらの魂により大きな負担になっているのが現実だろう。

マタイ5:23,24

23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 

24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。 

 「まず行って」。この主イエス・キリストの御言葉の重要性に気付くとき初めて、真のリバイバルの土台の上に立つことができるのだと思う。