an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

成長の方向

エペソ4:11-15

11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。 

12  それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 

13  わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。 

14  こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、 

15  愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。 

 この個所には、キリストの体を形成する一人ひとりのキリスト者の「成長の方向」について書き述べられている。

  • 神の子を信じる信仰の一致
  • キリストを知る知識の一致
  • 全き人になる(14節の「子供」と対比した「霊的に成熟した大人」を指す)
  • キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る

 この「成長の方向」に向けて、それぞれのキリスト者が意識を持って生きていくこと、この意識をもって互いに交わり、全てのことをなしていくことが全てである。

 自分の言動、つまり自分のキリスト者としての生き様が発するメッセージが、この方向に向かっているか絶えず自省しないと、14節にあるように、「だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたり」してしまう。特に今の時代のように、様々な情報が簡単に手に入り、しかもそれらの情報が十分な検証もなく拡散されてしまう時代には、特にこの方向を心し、厳密に取捨選択していく必要がある。決して自分だけの問題ではないからである。

 

 昨日のメディテーションで登場したベテスダの男は、三十八年間病気で苦しんでいたが、その間に彼の意志はすり減ってしまっていた。池の水が動く度、彼は躍起になって動こうとするが、その度に他の誰かが先に水の中に入ってしまっていた。その一瞬の希望と果てしない失望の繰り返しにより、彼の意志は消耗しきっていた。だからこそ、イエス・キリストは彼の意志に触れるように「よくなりたいか」と聞き、そして「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と、一人では身動きできなかった男に命じたのである。

 キリストの言葉は、私たちの萎えた意志や、様々な情報や教えで一喜一憂し疲れ切った精神を、革新し強める力に満ち満ちている。

 癒しを受けた男にとって、「ベテスダの池の水」が動こうが動くまいが、今やどうでもよくなった。自分を助けて池に入れてくれる人がいるかどうかも関係ない。自分が「一番」に池に入れるかどうかも、どうでもよくなった。キリストが自分の「意志の力」となり、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と励まして、キリストに従う方向に導いてくれるからである。