an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

バジリカの入り口から射し込む光

f:id:eastwindow18:20170706210130j:plain

Basilica di Santa Maria dei Serviの正面入り口から差し込む光

 石の塊が闇にかたちを失い、光自体がかたちをもつ。

ヨハネ1:1-5

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2 この言は初めに神と共にあった。

3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

「神の子羊」の眼差しの奥

マルコ10:19-27

17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。

18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。

20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。

21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。

24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。

25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。

27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。  

 このエピソードの登場する会堂司の金持ちの青年は、御子イエスに日夜従っていた取税人や罪人、元売春婦、貧困者などの所謂社会的弱者のグループとは対極をなすカテゴリーに属していた。シナゴーグの責任者として社会的地位をもち、神の祝福の顕れと考えられていた経済的富を誇り、何よりも「幼い時からモーセの律法に従って生きてきた」という自覚を持っていた。それでもこの青年は、他の人々同様、「何かが足りない」「イエスはその何かを自分に与えることができる方だ」という思いをもって、御子にのもとに行ったのである。

 御子はそのような青年を、自分に従っているグループの肩を持って感情的に退けることはなかった。21節「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた」に顕れている御子の愛の眼差しがそれを示している。

(文語訳)イエス彼に目をとめ、愛しみて言ひ給ふ

(塚本訳)イエスは彼をじっと見て、かわいく思って言われた

(前田訳)イエスは彼をじっと見て愛着を感じていわれた

(岩波訳)そこでイエスは彼を見つめながら、彼を慈しんだ。そして彼に言った

 しかしその御子の愛は、人間の罪を許容するようなものではなく、人間の心に悔い改めと変革をもたらそうとする神の義に満ちた愛であった。

「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」

 御子のこの金持ちの青年に対する慈しみに満ちた眼差しの奥には、永遠の栄光を背にし地上に来られた御子が、神の律法を完全に尊守していたにもかかわらず、「世の罪を取り除く神の子羊」として十字架の上で全てを罪人の救いの為に捧げるという、その心を突き刺すような苦難の選択に対する畏れがあったのではないだろうか。

 

関連記事:

狐と葡萄

岩波文庫『イソップ寓話集』中務哲郎訳

15

『狐と葡萄』

腹をすかせた狐君、支柱から垂れ下がる葡萄の房を見て、取ってやろうと思ったが、うまく届かない。立ち去りぎわに、独り言、

「まだ熟れてない」

このように人間の場合でも、力不足で出来ないのに、時のせいにする人がいるものだ。

f:id:eastwindow18:20170701131010j:plain

すっぱい葡萄 - Wikipedia

 「すっぱい葡萄」(すっぱいぶどう)は、イソップ寓話の一つ。「狐と葡萄」ともいう。

 

【あらすじ】

 キツネが、たわわに実ったおいしそうなブドウを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。

 

【解説】

 手に入れたくてたまらないのに、人・物・地位・階級など、努力しても手が届かない対象がある場合、その対象を「価値がない・低級で自分にふさわしくない」ものとみてあきらめ、心の平安を得る。フロイトの心理学では防衛機能・合理化の例とする。また、英語圏で「Sour Grapes」は「負け惜しみ」を意味する熟語である。

  イソップ寓話自身の解説によると、狐が「時のせい」にしていることになっているが、ウィキペディアの解説では、時間の要素よりも対象に対する侮蔑を強調している。

 現代の「狐」は、「届かない葡萄」を侮蔑するだけでなく、その葡萄を喜んで食べる鳥やリスたちを卑下して虚勢を張る。

「神の歩む音」への恐れ

創世記3:8-13

8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。

13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 

 あらゆる場所に臨在する霊なる神が、園の中を「歩く音を立てて移動している」のは、罪を犯し霊的に離れてしまったアダムに「神の気配」を気付かせるためだった。その「神の気配」に、アダムは恐れ、逃げ場のない現実から逃避しようとした。

 この「神の歩む音」に震えるエデンの園の空気は、私たちの良心の呵責を顕わしているのかもしれない。本来、創造主に与えられていた自己防衛本能は、罪によって歪み、叱責を受ける恐れから身を守るための「自己愛の奴隷」となってしまった。

 逃避隠蔽。アダムはイチジクの葉が自分の恥を隠してくれると思った。美しい木々の間に隠れれば、全知の神の目を避けられると思った。創造主が創り、人間が管理するよう与えたものが、本来の存在意義から外れた、人間の罪の結果に利用されるようになった。しかしイチジクの葉には、人間の罪の恥を隠す機能など与えられていなかったし、エデンの木々は神の視線を遮るために植えられてはいなかった!

 そして、責任転嫁。主なる神の問いかけは正確である。「(あなたに)食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか。」しかしアダムの答えは、まるで自分に実を与えた女の責任であり、またその女を自分のそばに置いた神が悪の根源であるかのようなものであった。

(新改訳)

あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。

 そしてこの答えには、アダムの神に対する虚勢も見える。自分の過失の自覚があるため、あえて「他の人が悪い」「自分は悪くない」を声高にアピールし、注意を逸らし、自分の過失を覆う必要があったのだ。

 私たちの良心という目に見えない存在の状態や、簡単には認めようとしない歪んだ自己愛の存在は、逃避や隠蔽、虚偽、責任転嫁、虚勢などがバロメーターとなって明らかになる。この歪んだ自己愛は、あらゆる手段、他人の憐みの情や親切さえ使って自分を「恐れ」から守ろうとする。しかしその執拗な試みこそが、何事も、宗教心でさえも、私たちの怖れを覆ったり、取り除くことができないことを示しているのである。

 しかし私たちには唯一の解決策が与えられている。主なる神の御前で悔い改め、御子の尊き犠牲によって罪の赦しを受けることである。

 罪を犯すたびに、何度でも...

箴言28:13

その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。

Ⅰヨハネ1:5-10;2:1-2

5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。

6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

2:1-2

1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

 

関連記事:

自らの祈りを省みる「ものさし」

マタイ7:21-23

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

ルカ18:9-14

9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。

10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。

11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。

14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 

  引用した『マタイによる福音書』の「多くの者」と、『ルカによる福音書』のパリサイ人には、祈りにおいて非常に明確な共通点がある。それは両者の祈りとも、主なる神に向かって語られている(「主よ」「神よ」 祈りと礼拝の対象としての、御子の神性を啓示している箇所でもある)と同時に、両者とも「自分が行ったこと」を語っているという点である。

主よ、主よ

わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。

また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか。

神よ

わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています

  恐ろしくシンプルだが、自分自身の祈りを省みて、果たして本当に信仰に基づいているのか(自分自身の人格や「善行」に意識が置かれているか、それとも心のうちに宿る御子と彼が成し遂げた善きわざの中にいるか)を量る「ものさし」として有効だと思う。

Ⅱコリント13:5a(新改訳)

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。

 

関連記事:

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。

ガラテヤ2:11-14

11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。

12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。

13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。

14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 

 シリアのアンテオケ教会に集まっていたケパ(使徒ペテロ)も、「ヤコブのもとから来た人々」つまり「エルサレム教会からアンテオケ教会に訪れていた人々」も、「割礼の者ども」も、「他のユダヤ人たち」も、バルナバも、使徒パウロも皆、全員生粋のユダヤ人であった。同じ旧約聖書を読み、同じイスラエルの王イエス・キリストを信じ、同じ信仰を持っているヘブライ人であった。

 しかしこのアンテオケ教会において、使徒パウロ以外は皆「ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、異邦人にユダヤ人のようになることを強い」、「福音の真理に従ってまっすぐに歩いていなかった」のである。

 「イエス・キリストを救い主として信じたヘブライ人(ユダヤ人)」、所謂「メシアニック・ジュー」を、「ユダヤ人だから」「アブラハムの子孫だから」という根拠で一括りにして、恵みの福音自体が与えていない「権威」や「優位性」を主張する者がいる。しかしアンテオケ教会における使徒パウロの言動は、その主張を完全の否定している。

ガラテヤ5:6-8

6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

7 あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。

8 そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。

ガラテヤ6:15

割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。  

  言い換えるなら、「割礼の有無」つまり「ユダヤ人キリスト者であるか、異邦人キリスト者であるか」が違いをもたらすのではなく、ユダヤ人であっても異邦人であっても「福音の真理に従ってまっすぐに歩いているか否か」が神の御前で問われているのである。

ルカ12:1

その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。 

使徒パウロの告白

ガラテヤ2:20

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。  

  使徒パウロは明確に「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と告白している。

 しかしこれは使徒パウロの自我が十字架の霊的体験によって完全に消滅し、彼がキリストになったという意味ではない。なぜなら「いま肉にあって生きている私」「神の御子に愛されている私」「御子を信じる信仰によって生きている私」という使徒パウロの自我が存在していることも告白されているからである。

 これは非常に重要な点である。信仰者の自我は、新生体験と同時に消え去り、キリストの自我が完全にとって代わるのではない。それはまた、新生体験者が誘惑から完全に解放され、罪を犯す可能性を失うわけではないことも意味する。

 使徒パウロが告白しているように、キリスト者は「御子の信じる信仰によって生きている」のである。もしキリスト者の自我が新生体験と共に完全にキリストの自我にとって代わるなら、何を信じ、何に希望を持たなければいけないだろうか。すでに実現していることに対して、実現することを待ち望む必要などないはずである。

ローマ8:24-25

24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。

25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

Ⅰヨハネ3:2

愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。 

 「いま肉にあって生きている私」「神の御子に愛されている私」「御子を信じる信仰によって生きている私」という自我が地上の生涯において最後まで残るからこそ、そして「肉」は霊的には退化することはあっても決して改善することはないからこそ、キリストを知れば知るほど信仰者は自分のうちにある「キリストと肉」のギャップを痛感し、晩年の使徒パウロのように告白せざる負えなくなるのである。

Ⅰテモテ1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

 「わたしは、その罪人のかしらなのである」の原文は現在形である。つまり使徒パウロは回心前の自分を語っているのではなく、テモテに手紙を書いている時点の自分自身に関して告白しているのである。

 当然、この告白は、使徒パウロの「罪深さ」を示しているのではなく、むしろ使徒パウロが「如何に生けるキリストを知っていたか」を示している。