an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「永遠の神の計画」と「人間から見た時間の概念」

 歴史と時間の相関性を「螺旋構造」と見なす観点は、非常に興味深いと思うと同時に、時空を超えた永遠の霊なる神の観点はどうなんだろう、という思いが私のうちに生じた。

 時間と空間の制限の中に生ける人間から見た「過去」「現在」「未来」を、御子のうちにすべて、そして完全に「保有する」(【保有】自分のものとして持っていること。ここでは、個人的には「統治」というニュアンスもイメージしているが、適正な表現が見つけられないので、とりあえず使っている。)神の観点では、時間は御子における神のわざを構成する要素の一つでしかなく、「推移」よりも「状態」そのものを見ているのではないだろうか。

Ⅱペテロ3:8-14

8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、

12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。

13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。 

 つまり永遠の神には、彼にとって「すべての者」が悔い改めに至り、救われ、ご自身のものとなることが目的であり、そのために一日の時間が流れようと、千年、二千年、三千年、と流れようと本質的な違いはなく、その時間の推移による歴史が螺旋運動的に繰り返そうが、またイスラエルの民が一か月もかからない道程を四十年間彷徨うことになったことが示しているように、人間の頑なな心によって何度も何度も繰り返し耐え忍ぶことを強いられようが、「地とその上に造り出されたものが焼き尽くされる」ような、一度しか起こらない出来事を通してだろうが、主なる神が「一心に見つめ続けていること」は、そのご自身の目的の達成なのではないだろうか。

 だからこそ聖霊は、「今」私たちに与えられている恵みを蔑ろにしないよう、また「今日」聞くことが許されている神の御声に対して頑なにならぬよう、御言葉を通して勧告しているのではないだろうか。

Ⅱコリント6:1-2

1 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。

2 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

へブル3:13-15

13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。 

 

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赤く見える「赤くないイチゴ」

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 イチゴの実を実際に見たことがない人間がいたと仮定し、もしその人にこの写真を見せたらとしたら、いま私たちが確かに認識しているこの「赤」は「見えない」のではないだろうか。

 つまりこの場合に私たちが経験するクオリアは、単なる「波長700ナノメートルの光(視覚刺激)が網膜を通じて脳に信号を与えた時に感じるもの」ではないことになる。

 なぜなら今、現在私の目の前には、「波長700ナノメートルの光を放っているもの」が存在しないからである。つまり脳の中で視覚的記憶とシンクロして、あの「赤のクオリア」を感じさせているのである。

  以下、クオリアに関するウィキペディアの定義である。

クオリアがどういったものかであると定義するかには様々な考え方があるが、おおよそ次にあげるような性質があるものとして議論される。

  • 言語化不可能: 体験される質感そのものを言語化して伝えることは困難であるとされる。例えば生まれつきの色盲の人に「赤い」というのがどういうことか、「青い」というのがどういうことかを伝えようにも、言語化して質感そのものを伝えることには困難をともなう。質感そのものを言語として概念化しがたかいことは、質感が言語という情報と直接的な因果関係がないものだからとも言われる。
  • 誤り不可能: クオリアの性質として、それは誤り得ない(訂正を受けない)もの、ともしばしば言われる。人は様々な錯覚を持ったり、また時に幻聴を聞いたり、外界の実在と対応しない様々な感覚を持つ。しかしそうした体験された感覚自体は、誤りえない実際の体験である、といったことが言われる。
  • 私秘的: 他者から観測できない個人的なものである、とされる。本人が特権的にアクセスできるという意味で特権的アクセスとも言われる。

 キリスト者の読者の方々は、これらのクオリアの特徴と、自分の霊的体験(人間の霊的面)とを比較して考察すると、多くの大変興味深い考えが与えられると思う。

 ただ言語化するのは、異常な困難が伴うが。

 

よりわかりやすい参考サイト:

クオリア - 哲学的な何か、あと科学とか

 

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あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。

エペソ4:25

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 

 この聖句において啓示されている教えは、ただ「偽りを捨てなさい」(「偽りを言ってはならない」とは書いていないことに注意。ただ単に偽証しないという次元よりもっと深い、偽りとの関係性に関わることではないだろうか。)と命じているだけでなく、「真実を語りなさい」とも命じている。

 この二つの命令は、互いの補完するものである。なぜなら、人は「偽りを口にしないが、恐れて真理を語らない」ことや、「真理を語りながら、妥協によって偽りを握りしめている」ことが十分にあり得るからである。

 また使徒パウロが言及している理由も意味深い。「わたしたちは、お互に肢体なのであるから。」 つまり、「偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい」という教えは、ただ個人的な倫理性に関わるものではなく、肢体、つまり信仰者の霊的集合体としての「キリストの体」全体に関わる問題だから、と主張されているのである。

 実際、兄弟姉妹に対して偽りを語ったり、偽りを擁護したり、また「調和のために」真実を語らないことは、私たちが認識できるか否かは関係ないレベルで、キリストの体を傷つけ、御霊の働きを妨げる。

Ⅰコリント13:6

(愛は)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

 

(塚本訳)

(愛は)偽りを見て喜ばない、むしろ真理を喜ぶ。

 勿論、「あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。」という教えの実践も、私たちの倫理的努力によって実践できることではなく、やはり御子イエス・キリストのうちにあって成し遂げられたわざを信じる、その信仰によって実現することは、冒頭の聖句の前の部分にはっきりと啓示されている。

エペソ4:17-22

17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。

18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、

19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。

20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。

21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。

22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、

23 心の深みまで新たにされて、

24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

 そう、信仰者の古い人は御子の死によって御子と共に葬られ、死から甦られた真理である方によって、信仰者は新しい人として生きているのである。

ローマ6:3-13

3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。

4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。

9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。

10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、

13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

新改訳聖書の著作権について

 通常利用している聖書検索ソフト e-Swordを再インストールして更新してみたところ、今まで日本語訳では「口語訳1955年版」しかなかったが、「新改訳」もリストに加わっていた。

 ダウンロードのファイル名を見ると、[Japanese SS Japanese Shinkaiyaku Seisyo published in 1954,1955; public domain]とあるが、これは口語訳に関するもので、明らかに間違いだと思う。なぜなら新改訳聖書の発行年は1970年(第一版)1978年(第二版)そして2003年(第三版)とあり、著作権の所有はいのちのことば社、および新改訳聖書刊行会にあるからである。つまりパブリックドメインではないのだ。

  ただし新改訳聖書 - Wikipediaには、以下のような記述がある。

ちなみに、2016年時点では、1965年に発行の新約聖書初版については、著作権が切れている。

 そしていのちのことば社の「聖書〈新改訳〉について」というページには、聖句の引用に関する規定が明記されている。

引用の場合
1.)聖書本文を誤りなくそのまま引用して下さい(変更の禁止) 。
2.)出所の明示を行って下さい(著作権法第48条)。
   聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会
3.)Webサイトでの電子データの場合の引用は、1Webサイトにつき1書未満、か つ、250節までとします。

 この「1Webサイトにつき1書未満、か つ、250節まで」という規定があるので、私はこのブログでは新改訳聖書をベースには使うことができず、特別に引用する意味がある時だけ、つまり訳のニュアンスの違いに引用するだけの特徴がある時のみに限定するよう心掛けている。

 ただ「1WEBサイトにつき、250節まで」という制限は、何年も同じブログを続けている場合、そしてそれを続ければ続けるほど、守ることが難しくなるのは明らかである。

 聖書が人類に与えられた本来の目的を考えれば、もう少し何とかならないのだろうか、という思いも出てくるが、一応、規定は規定ということで...。

   

ある姉妹の報告

 先日、ある東欧出身の姉妹から電話があり、婚約を解消した報告を受けた。この姉妹には色々な状況で相談を受けていたし、彼女の父親は自国で牧師をしていて、娘を訪ねてきたとき、言葉は通じないながらも共に祈る時をもち、霊の交わりを強く感じた経験をしたことがあった。非常に素朴な信仰をもつ家族というのが印象である。

 彼女の報告を受けた時、私は内心、それまであった重荷が取れたようで、主なる神に感謝した。彼女もそれを感じたのか、婚約解消の理由を説明し始めた。

 実は数か月前に彼女の口から婚約の話を聞き、相手の男性の名を聞いたとき、私は非常に悩み苦しんだ。その男性がどのような人間かよく知っていたし、また彼の家族が過去に教会や牧師家族に対してどのようなことをしてきたかよく知っていたからである。

 ただ幸せな家庭を夢見ている純朴な姉妹にこの現実を語るには、あまりにもデリケートで厳しすぎるように思え、ある姉妹と相談した上で、敢えて何も語らず、すべてを主なる神の御手に委ねることにしたのである。

 その数週間後、今年の9月に結婚式が決められ、その招待の連絡を受けた時、私の心がさらに動揺したのは言うまでもない。ただ「御心でないのなら、主よ、手遅れになる前に彼女を守ってください」とだけ祈り続けていた。

 そして今回、彼女から婚約解消の報告を受けたのである。誰かに聞いたわけでもなく、彼女自身が相手の隠れていた不誠実な部分を知り、自ら納得し、決断し、主なる神にそのことを感謝していたことに非常に感動した。

 信仰者にとって結婚は一生に一度しかないものであり、その結婚という制度を人類に与えた主なる神自身が、主権をもって導いてくださるということを改めて思わされた出来事であった。

詩篇143:8-10(新改訳)

8 朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

9 主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、嘲る者の座に座らぬ人は幸いである。

詩篇1

1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。

5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

 悪しき者の配下にある世界(Ⅰヨハネ5:9)に住み、悪魔が吠えたけるライオンのように食いつくすべきものを求めて歩き回っている世(Ⅰペテロ5:8)に遣わされ、ひねくれた悪人(Ⅱテサロニケ3:2)が隙を窺っているような社会で生きている私たちは、どうしたらこの詩篇記者が言うところの「さいわい」を保つことができるだろうか。

 何より信仰者であっても自分自身のうちに肉なる者がいる私たちが、どうしたら「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座に座らぬ」ように、自らを霊的・精神的・倫理的に聖別して生きることができるだろうか。

 自分に少しでも正直な人は、自分の努力だけではとてもでないが実現できないことを知っている。たとえ「昼も夜も途切れることなく」聖書を読み、祈る努力をしても、私たちの肉の思いは私たちを穢し、天に羽ばたこうという思いを引きずり落とす。

 しかし御子イエス・キリストの十字架の恵みは、私たちを罪と死と孤独の荒野から、「川のほとり」、「キリストのうち In Christ」に移植して(שׁתל shâthal)してくださっただけでなく、聖霊の内在と満たしを通し、信じる者の心に生ける水の川が湧き流れる「泉」を備えてくださったのである。

ヨハネ7:37-39

37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。 

 その御霊の内在と満たしによって、主のおきては私たちの心に刻まれ、私たちの心の喜び、日々の糧となり、闇を照らす光となるのである。

 その霊的光によって、「悪しき者のはかりごと」「罪びとの道」「あざける者の座」を識別し、霊的・精神的・倫理的、時に物理的にも、袂(たもと)を分かつのである。

 主よ、私たちを「正しき者の道」である御子イエスのうちに絶えず留まらせてください。

御子から見た肉体の死の後の魂

マルコ12:18-27

18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、

19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、

21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。

22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。

23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。

25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。

  詭弁を使ったサドカイ派の人々の問いかけに対する御子イエスのこれ以上ないと言えるほどの鋭い言葉の中に、御子の人間の魂に関する正確な教えが啓示されている。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。

 つまりユダヤ人であったら知らない者はいないほど有名なエピソードを引用し、その文法的要素も踏まえて、アブラハムもイサクもヤコブも肉体的には1800年近く前に地上の生命を終えているが、彼らの魂は主なる神の前で生きている、と主張したのである。

 なぜなら主なる神はモーセに「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは啓示していないからである。つまりこれらの信仰者たちが地上で生きている期間だけの神であったわけではなく、御子がサドカイ派の人たちと話している瞬間にも、アブラハムやイサクやヤコブは生きていて、主なる神は彼らの神である、と主張しているのである。

 これは御子がまだ十字架の上で命を捧げ、復活する前の時期に話した言葉であることを考えると大変意味深い。つまりここでは、御子の復活と共にパラダイスへ導き上げられた旧約時代の信仰者の状態を話しているのでも、主の来臨の時に復活する魂について話しているのでもないのである。

 この肉体の死の後の魂の状態に関する御子の教えは、御子がユダヤ人宗教家たちと議論していた時の言葉の中にも啓示されている。

ヨハネ8:56

あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

 つまり御子が地上に顕れた1800年近く前に地上の生涯を終えていたアブラハムが、御子の顕現の預言の実現を心待ちにし、その実現を見て実際に喜んだ、と言っているのである。つまりアブラハムは肉体的死の後、彼の魂は肉体と共に消滅したとか、無意識の中で墓の中にいたのではないのである。

 また御子自身が語った、金持ちとラザロのエピソードも、肉体の魂の状態に関する御子の考え方がよく伝わってくるものである。

ルカ16:19-31

19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。

20 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、

21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。

22 この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。

23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。

24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。

25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。

26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。

28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。

29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。

30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。

31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 ここではアブラハムだけではなく、地上の生を終えていた金持ちも明確に自意識をもち、知覚(「ハデスにいて苦しみながら」「わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」)や、記憶(「わたしに五人の兄弟がいますので」)さえあるように表現されている。またラザロに関しても「しかし今ここでは、彼は慰められ」とあり、これらの言葉を語っているアブラハム同様、意識があることを暗示している。

 新約聖書には「肉体の死」を「眠り」と表現している箇所がいくつかある。例えば会堂司ヤイロの娘が死に、御子によって蘇ったエピソードや、同じ病気で死んで四日後に御子の言葉によって蘇ったラザロのエピソードにおいてである。

マタイ9:24

「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。 

ヨハネ11:11-14

11 そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。

12 すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。

13 イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。

14 するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。 

 また初代エルサレム教会の執事ステパノが殉教した際にも、眠りについたという表現が使われている。

使徒7:60

そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

 使徒パウロも【κοιμάω koimaō】という「眠りにつく、死ぬ」と意味を持つ単語を使い、肉体の死を眠りと表現している。

Ⅰコリント7:39

妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。 

(当然、ここでは「夫が眠れば」と訳してしまうと、大変なことになるので、「死ぬ」と訳している。)

Ⅰコリント15:6;18;51

6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。

18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。

51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。

Ⅰテサロニケ4:13-17

13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。

14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。

15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。

16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

 ここでは異なる二つの動詞を使いながら、「イエスにあって眠っている(κοιμάω koimaō)人々」と「キリストにあって死んだ(νεκρός nekros)人々」が、同義として表現されている。

 また使徒ペテロも同じ【κοιμάω koimaō】を使って、先祖たちのことを「眠りについた」と表現している。

Ⅱペテロ3:4

「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。 

 しかしこれらの「眠りにつく」という表現は、どちらかというと「地上に生きている人間との関係における肉体の死」を婉曲的に表現したもので、必ずしも「主なる神との関係における死後の魂の在り方」について説明しているわけではない。

 そして以下の聖句は、肉体の死の境界線を超えた魂の継続性を非常に力強く啓示している。

Ⅱコリント5:1-9

1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。

3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。

4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。

6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。

7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。

9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。 

ピリピ1:20-23

20 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。

21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。

23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。

 ここで使徒パウロは明確に「肉体において生きていること」「肉体にとどまっていること」の対比として「死ぬこと」を置き、それが「この世を去ってキリストと共にいること」と等しいものとして考えている。

 これは十字架の上で御子自身が、罪を悔い改めた強盗に対して宣言した救いの言葉にも共通する真理である。

ルカ23:39-43

39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。

40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。

41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。

42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 

 結論として信仰者の魂は、肉体の死後、消滅したり意識を失った状態になるのではなく、地上で生きている間に信じ従った主イエス・キリストの臨在のうちに、肉体の復活つまり永遠の贖いの完成を待つのである。

 反対に不信仰者はハデスと呼ばれる隔離された霊的空間で、永遠の裁きを受ける時を待つことになる。