an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、嘲る者の座に座らぬ人は幸いである。

詩篇1

1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。

5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

 悪しき者の配下にある世界(Ⅰヨハネ5:9)に住み、悪魔が吠えたけるライオンのように食いつくすべきものを求めて歩き回っている世(Ⅰペテロ5:8)に遣わされ、ひねくれた悪人(Ⅱテサロニケ3:2)が隙を窺っているような社会で生きている私たちは、どうしたらこの詩篇記者が言うところの「さいわい」を保つことができるだろうか。

 何より信仰者であっても自分自身のうちに肉なる者がいる私たちが、どうしたら「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座に座らぬ」ように、自らを霊的・精神的・倫理的に聖別して生きることができるだろうか。

 自分に少しでも正直な人は、自分の努力だけではとてもでないが実現できないことを知っている。たとえ「昼も夜も途切れることなく」聖書を読み、祈る努力をしても、私たちの肉の思いは私たちを穢し、天に羽ばたこうという思いを引きずり落とす。

 しかし御子イエス・キリストの十字架の恵みは、私たちを罪と死と孤独の荒野から、「川のほとり」、「キリストのうち In Christ」に移植して(שׁתל shâthal)してくださっただけでなく、聖霊の内在と満たしを通し、信じる者の心に生ける水の川が湧き流れる「泉」を備えてくださったのである。

ヨハネ7:37-39

37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。 

 その御霊の内在と満たしによって、主のおきては私たちの心に刻まれ、私たちの心の喜び、日々の糧となり、闇を照らす光となるのである。

 その霊的光によって、「悪しき者のはかりごと」「罪びとの道」「あざける者の座」を識別し、霊的・精神的・倫理的、時に物理的にも、袂(たもと)を分かつのである。

 主よ、私たちを「正しき者の道」である御子イエスのうちに絶えず留まらせてください。