an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

赤く見える「赤くないイチゴ」

f:id:eastwindow18:20170304183350j:plain

 イチゴの実を実際に見たことがない人間がいたと仮定し、もしその人にこの写真を見せたらとしたら、いま私たちが確かに認識しているこの「赤」は「見えない」のではないだろうか。

 つまりこの場合に私たちが経験するクオリアは、単なる「波長700ナノメートルの光(視覚刺激)が網膜を通じて脳に信号を与えた時に感じるもの」ではないことになる。

 なぜなら今、現在私の目の前には、「波長700ナノメートルの光を放っているもの」が存在しないからである。つまり脳の中で視覚的記憶とシンクロして、あの「赤のクオリア」を感じさせているのである。

  以下、クオリアに関するウィキペディアの定義である。

クオリアがどういったものかであると定義するかには様々な考え方があるが、おおよそ次にあげるような性質があるものとして議論される。

  • 言語化不可能: 体験される質感そのものを言語化して伝えることは困難であるとされる。例えば生まれつきの色盲の人に「赤い」というのがどういうことか、「青い」というのがどういうことかを伝えようにも、言語化して質感そのものを伝えることには困難をともなう。質感そのものを言語として概念化しがたかいことは、質感が言語という情報と直接的な因果関係がないものだからとも言われる。
  • 誤り不可能: クオリアの性質として、それは誤り得ない(訂正を受けない)もの、ともしばしば言われる。人は様々な錯覚を持ったり、また時に幻聴を聞いたり、外界の実在と対応しない様々な感覚を持つ。しかしそうした体験された感覚自体は、誤りえない実際の体験である、といったことが言われる。
  • 私秘的: 他者から観測できない個人的なものである、とされる。本人が特権的にアクセスできるという意味で特権的アクセスとも言われる。

 キリスト者の読者の方々は、これらのクオリアの特徴と、自分の霊的体験(人間の霊的面)とを比較して考察すると、多くの大変興味深い考えが与えられると思う。

 ただ言語化するのは、異常な困難が伴うが。

 

よりわかりやすい参考サイト:

クオリア - 哲学的な何か、あと科学とか

 

関連記事: