an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「永遠の聖霊」によって、「永遠のあがない」が全うされ、「永遠の国」が与えられた。

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へブル9:11-15

11 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、

12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。

13 もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、

14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

15 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。 

 「永遠の聖霊」「永遠のあがない」「永遠の国」

 御子イエスは「永遠の聖霊によって」、ご自身の命を十字架の上で捧げ、その死によって(「血」はその犠牲の死を証明するものである)、「永遠の贖い」を全うされた。それは御子を信じる者が、約束された「永遠の国」を受け継ぐためである。

 「永遠」とは、単に「時間的制限を超えた」という意味ではなく、空間という概念さえも超えた、不変でありながら活性であるという、まさに「生ける神のいのち」そのものの性質である。

 御子の死が「永遠の聖霊」によるものであるということは、霊である神のうちに犠牲の死の本質が内在していることを意味する。御子の十字架の死は、時間の流れの中のある時点において、宇宙空間のある一か所で起きた出来事であると共に、時間も空間も超越する存在である永遠の神の意志そのもである。

 旧約聖書において御子の贖いの死が「主の腕の顕れ」として預言され、神の民がその「永遠の腕」に支えられていることが啓示されている。

申命記33:27a

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある

イザヤ52:13-15;53:1-5

13 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。

14 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――

15 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。

1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか

2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 

 永遠の聖霊によって捧げられた御子の死は、彼を信じる者の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者とすることができる、と啓示されている。時間と空間の制限の中に歩む私たちは、目先のことに囚われ、自分のビジョンや欲望を実現することに夢中となり、まるで一枚の絵を観るように私たちの過去・現在・未来におけるすべてを見る、「永遠」という神の視点を意識から追い出して生きている。

 今一度、「心に与えられた聖霊によって、生ける神に仕える」ということが、何を意味するか、祈りの中で光を求めよう。御子イエスの死が、そのような者にすることができると啓示しているのだから。

 主よ、十字架の御前に静まる心を与えてください。

「誰もあなたたちを騙すことのないように、警戒せよ」

マタイ24:3-14

3 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。

4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。

5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。

7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。

8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。

10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。

11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。

12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

 弟子たちの「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」という質問に対して、御子イエスの回答は実に意味深い。

人に惑わされないように気をつけなさい。

 

誰もあなたたちをだますことのないように、警戒せよ。(岩波訳)

 戦争や争い、飢饉、地震などの出来事よりも先に、人間に惑わされないよう警戒しなさい、と教えているのである。それは、「多く人々」が自称キリストとか預言者を名乗り、「多くの人々」が惑わされ追従し、「全ての民」はキリスト者を憎悪の対象とし、苦しめ、殺し、不法が世に蔓延るため、「多くの人」の愛が冷め、「多くの人」が躓き、互いに裏切り、憎しみ合いからである。

多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。

人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。

あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。

多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。

多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

 つまりそれまでキリスト者に対して通常の人間関係で接してきた人々、さらにもっと親しい関係だった人々さえも、終わりの時には態度を変え、キリスト者を憎み、迫害したり、惑わしたりするように変わってしまうだろうと予告しているのである。その点、岩波訳「誰もあなたたちをだますことのないように、警戒せよ」という訳は、原文がもつ緊迫感をより上手く訳出している。つまり現時点では思ってもみない人まで信仰者を惑わしたり騙したりするようになるだろうという、実に厳しい状況を前提に警告しているのである。

 これは使徒パウロがテモテに書き記した「終わりの時に訪れる苦難の時代」の特徴と見事に一致する。

Ⅱテモテ3:1-5

1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。

2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、

3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、

4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、

5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。 

 「その時、人々は・・・となるであろう」とあり、「その時、世界経済は・・・」とも「その時、宗教界は・・・」とも、「その時、地球の環境は・・・」とも書かれていない。政治、経済、環境問題、文化、宗教などの枠組みと無関係に、「人間そのものが堕落し、苦難の元凶となる」ということである。

 主イエスが「多くの人々」が惑わす者となり、さらに「多くの人々」が惑わされ、「全ての民」がキリスト者を憎むようになるということは、主の再臨の前には最後まで忠実に残るキリスト者の数が極少数派になることを暗示している。このような預言を読むと、主の再臨の前になるべく多くの魂の救いのために祈り、働くのは当然ながら、一度は恵みを体験し、救いを受けた魂が惑わされて「大多数」に吞み込まれないためにも、お互いに御言葉と祈りによって励まし合い、助け合う必要があることを示している。これこそ、終わりの時に私たちが求めるべき霊的リバイバルの本質ではないだろうか。

 「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 

 最後まで救いの福音を真っ直ぐ人々に宣べ伝える者としてありたい。

 

関連記事:

「聖書の預言」と「偽預言者」

Ⅱペテロ1:19-21;2:1-3

19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。

2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。

3 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。

 章ごとに区切って聖書を通読する弊害は、章をまたがって啓示されている真理の十分な意味を汲み取ることを邪魔してしまうことにある。例えば今回引用した第二ペテロの1章と2章は、「しかし」という逆接の接続詞によって「書き記された聖書の預言」と「偽預言者」が対置されている。

 聖書の預言は「暗闇に輝くともしび」だが、偽預言者は「暗闇の中で欺き、利を貪り、追従者を滅亡へ至らせる」。「聖書の預言」が決して人間の意志から出たものではなく、聖霊の導きにより、神によって語られたものであるのに対し、「偽預言者」は人間の果てしない貪欲によって、滅びに至らせる異端の教えを「ひそかに」持ち込むのである。これは正しい教えを認識しながらも、それとは異なる教えを他の人には気付かれないように隠れて持ち込むという、明確な人間の意志、しかも邪悪な意志によるものであることを示している。なぜなら聖書の預言による教えの正しさを認識しているからこそ、自分の持ち込もうとする教えがそれとは異なるということを自覚できるのであって、その自覚があるからこそ、「ひそかに持ち込む」方法を取るのである。

 それゆえ、これらの偽預言者は聖書の教えのことを全く知らない、またその正しさを認めないような者でなく、それを知りつつも微妙かつ致命的に異なる教えを意図的に紛れ込ませる「内通者」である。

 だからこそ使徒ペテロは、「あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう」と言い、さらに「彼らは・・・自分たちをあがなって下さった主を否定して」として、兄弟姉妹の交わりの間に現れる偽教師が、主イエスに対する信仰によって贖いを経験していた者であったことを明記しているのである。

 それは同じ章の以下の聖句からも理解できる。

2:13

彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。

2:18-20

18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、

19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。 

 またこの啓示は、使徒パウロがエペソの教会の長老たちに語った言葉によっても確認できる。

使徒20:28-30

28 どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。

29 わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。

30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。 

 例えば誰かがいきなり兄弟姉妹の集まりの所へ行って、「スパゲッティー・モンスター教」について説いたとしても、誰も真に受ける信者はいないだろう。しかし同じ兄弟姉妹が通う教会の牧師が「神のしもべイエス様が父なる神に従って全てを十字架に捧げたように、私たちも主なる神によって召され、教会の上にたてられた権威に従い、すべてを捧げて仕えましょう」といくつかの聖句を引用しながら什一献金を求めたら、「アーメン。私も頑張らなきゃ」と思ってしまう兄弟姉妹も出てくるだろう。

 私たちは聖書の総合的な学びをもっともっと深め、「本物の教え」を知ることによって「偽の教え」を見極める霊的識別の賜物を求めるべきだし、また自分も同じ過ちに陥らないように祈り求める必要がある。

Ⅰテサロニケ5:16-24

16 いつも喜んでいなさい。

17 絶えず祈りなさい。

18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

19 御霊を消してはいけない。

20 預言を軽んじてはならない。

21 すべてのものを識別して、良いものを守り、

22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。 

マタイ7:13-20

13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。

16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。

17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。

19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。

20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 

Ⅰコリント10:12

だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

ガラテヤ6:1

兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。  

「ゆるい福音」と「十字架の言」

ガラテヤ3:1

ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。 

ガラテヤ6:14

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

 御子の死を通してこの世は十字架に架けられたことを霊的現実として知っているのに、なぜ私は救いの福音をまるで「この世にある無数の選択肢の一つ」、「ゆるい福音」として提示する圧力に屈しなければならないのだろうか。相対主義者が福音をそのように見做したとしても、否、それ以下と蔑視しても何ら不思議ではないが、信仰者はそうでないと信じている、はずである。

 福音宣教のために召命を受けたはずの者が、自分は何者で、何をし、どこへ行き、どう感じたか、と自分自身のことばかりを語っていたら、主イエス・キリストがどのような方でその十字架のわざは何を意味し、何を私たちに約束しておられるかを全身全霊で探し求めている心の姿勢を第三者は感じ取れるだろうか。

 福音は、「地の果てまで続く砂漠に備えられた唯一の泉」「焼野原に残った一本の果樹」「死刑場に向かう囚人のための恩赦の手紙」なのだ。「ゆるい福音」「そこそこに良い知らせ」などただの気休めで、真実を求める魂はその安っぽさにうんざりしている。

 必要なのは「神にとって御子イエスの死が何を意味するか」をより深く知ることであり、その過程があってはじめて「御子を死から甦らせた神のいのち」がより現実的に顕れる。私たちの霊魂は、そのいのちの顕現を慕い求めている。

詩篇63 

ユダの野にあったときによんだダビデの歌

1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。

2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。

3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。

4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。

5 (

6 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる。

7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。

8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。

9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は地の深き所に行き、

10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじきとなる。

11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。  

詩篇73:25-26

25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。

26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。

「傷痕」

『生物と無生物のあいだ』

福岡伸一著(講談社現代新書1891)

P162、163から引用

 よく私たちはしばしば知人と久闊(きゅうかつ)を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。

(引用終わり)

 自分自身の体をじっくり観察して、火傷の痕や傷痕、手術の痕などが何か所にあるか数えてみたことがあるだろうか。そのような傷痕が全く無いという人はほとんどいないだろう。誰でも子供の時に遊んでて怪我した痕や、自転車やバイク、自動車の事故の怪我の痕、火傷や手術による縫合の痕など、改めて数えてみたら結構な数があるのではないだろうか。

 よく考えてみればとても不思議ではないだろうか。生物学者が言うように、もし私たちの肉体の全てが分子レベルにおいて半年ですっかり入れ替わるのなら、なぜ外的作用による後天的な傷痕がそのまま残るのであろうか。肉体は傷口を治す力を持っているのに、傷痕をほぼそのまま残すのである。

 歳月の経過と共に、肌はハリを失い、皺が増え、老いのしるしが確実に肉体の様相を変えていくのに、傷痕はほぼそのままの状態で残されていく。

 こんな比較をしたら生物学者に笑われてしまうかもしれないが、例えば事故を起こして車のドアが凹んでしまったとする。上手く修理できても、よく見れば修理の痕跡を見つけることができるかもしれない。しかし完全に新しいドアに交換したら、事故の痕があるはずがないのである。

 使徒パウロはキリストの十字架の福音によって回心し、全く新しい人生を歩みはじめた。それは回心前のパウロの「改良版」ではなく、「修復品」でもなかった。全く新しい、キリストのいのちによるものであった。

ガラテヤ2:19-20

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 

Ⅱコリント5:17

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

 それはまた一度きりの経験ではなく、内なる聖霊の力による、継続的な日々の体験であった。

Ⅱコリント3:18

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

 それにもかかわらず、新しくされ、日々改新されていた使徒パウロの心には、回心前の「傷痕」が晩年に至るまでそのまま残っており、彼自身、自分の証しの中で何度も言及していたのである。

Ⅰコリント15:9

実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 

使徒22:3-5

3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。

4 そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。

5 このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。 

使徒26:9-11

9 わたし自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。

10 そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。

11 それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。 

ガラテヤ1:13

ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。 

 これは信仰者の集合体であるキリストの体においても言える真理である。ある「体」の部位は、他の部位よりも深い「傷」を負うことがある。それは誰かが意図的に負わせた「傷」かもしれないし、自分の怠慢や不注意によるものかもしれない。

 いずれにせよ、その「傷」は神の力によって癒される。しかし、その部位には周りの人々の注意を引くような「傷痕」が残され、それが恵みの福音のために用いられるのである。

 私たちも、もっと私たちに対する主なる神の選びの御心と崇高な知恵に信頼し、キリストの恵みの証人として大胆に生きてもいいのではないかと思う。たとえ私たちの心が、「火傷の痕」や「傷痕」で覆われていたとしても…

Ⅱコリント12:9-10

9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」(4)

Ⅰテモテ5:17-21

17 よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。

18 聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。

19 長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。

20 罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。

21 わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない。

 この教えの中には「長老」とあるが、基本的に「監督」「牧師」「指導者」「リーダー」などの呼称と同じ意味をもつ立場として考えることができる。要するに地域教会において、そのグループの霊的状態に対して「神に言い開きをすべき者」「魂に対して目を覚まして見張っている者」としての適性をもつとして判断され、選ばれた者を指す。

へブル13:17

あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。 

Ⅰテモテ3:1-7

1 「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。

2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、

3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、

4 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。

5 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。

6 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。

7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。 

テトス1:6-9

6 長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。

7 監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、

8 かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、

9 教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。

 冒頭の聖句は、この「長老」「牧師」「監督」「指導者」「リーダー」に対する然るべき対応を三つのタイプに分類して教えている。(簡略にするため、今回は「牧師」の呼称だけを使う)

  1. 良い指導をしている場合、特に宣教と教とのために労している場合:その牧師は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい。
  2. 誰かが牧師に対して批判・非難を訴えている場合:二人か三人の証人がない場合には、受理してはならない。
  3. 牧師が罪を犯した場合:他の人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。

 1の場合、地域教会は十分な御言葉の糧によって育てられ、神に対する畏敬の念と御言葉の知恵と聖霊による喜びが兄弟姉妹の交わりを治めるので、ごく自然に指導者に従い、その教師が宣教と教えに集中できるように出来得る限り努力を惜しまないものである。

 しかしどのような健全な教会においても、2の場合のように、指導者に対する批判・非難は必ず存在する。ある意味、地域教会を代表する存在として、また人前に立ち真理を教える立場として、それは避けられない現実である。しかしその現実は、それらすべての批判・非難を受理することを意味しない。それらの訴えが、真実に基づくかどうか確かめられなければいけないのである。使徒パウロがここで「受理してはならない」と命令したのは、エペソ教会をサポートするために遣わされていたテモテに対してだが、地域教会の兄弟姉妹の一人一人にも適用することができるだろう。つまり、ある教会の会員である貴方は、貴方の教会の牧師に対する訴えを、二人か三人の証人がいない場合、受け入れてはいけないし、聞いた訴えの言葉を確かめないまま第三者に伝えてはならない、という意味である。

 また大事な点は、「二人か三人の証人」であって、「二人か三人の同調者」ではないことである。なぜならただ人間的な党派心などで、根拠もない訴えに同調する者も必ず出てくるからである。公に真実を証言する責任を負わない者は「証人」とは呼べないだろう。

 この教えはモーセの律法を根拠としてもつもので、御子イエスも教会の教えの中で適用しているものである。

申命記19:15-20

15 どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。

16 もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、

17 その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。

18 その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、

19 あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。

20 そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。 

マタイ18:15-16

15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。 

 地域教会においては勿論だが、インターネット上のサイトやブログ、掲示板、SNSなどでも十分に注意しなければならない。匿名で教会や牧師を批判・非難する記事やコメントを目にした場合、事実を確認することなく拡散することは、悪に加担することになる可能性があることを私たちは肝に銘じておくべきだろう。

 3の場合、それは実に痛々しいプロセスだと思うが、外科手術のように教会の健全化に必要なものだと思う。この聖書の教えを守った結果、義なる神に対する畏敬の念が教会に満ち、祝福されたケースは少なくない。ただこの聖句を悪利用し、指導者に対する根拠のない訴えを会衆の前で「ぶちまける」ケースも残念ながらある。その場合、会衆は2の教えを基に判断し、必要にならば3の教えを適用し、偽りの訴えをする者を公に咎めることになる。

その証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。

 

「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか」(3)

Ⅰコリント6:1-11

1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。

2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

4 それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。

5 わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。

6 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。

7 そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。

8 しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

 使徒パウロはここで、地域教会の中で起きた問題に対して「兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出す」、つまり公の裁判の場に持ち込み、裁きを不信者に任せることが、その地域教会全体にとって「恥ずべきこと」であり、「敗北」であり、「不義」であると断罪している。

  • わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。
  • そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。
  • しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。

  「恥ずべきこと」であるのは、その地域教会の中に「兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいない」ことを証明しているからだ。勿論、ここでは人間的な知恵や知的レベルについて語っているのではなく、「神の霊的賜物としての知恵」であり、それは信仰をもって求めるものには必ず与えられると約束されている種類のもの、「上からの知恵」だからである。

ヤコブ1:5-8

5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。

7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。

8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。 

ヤコブ3:13-18

13 あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。

14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。

15 そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。

16 ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。

17 しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

18 義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。

 また「敗北」であるのは、地域教会の中で起きた不義に対して、神の知恵や正義に委ねず、人間的知恵や地上的正義による裁きに委ね、それで自分に対して犯された悪に報おうとするからだろう。

ローマ12:17-21

17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。

18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

 だからこそ使徒パウロは、このテーマの中で「神の絶対的・最終的な正義」を提示しているのではないだろうか。

Ⅰコリント6:9-10

9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。 

 神の義によって統治されている神の国のことを考慮せず、地上的な知恵と正義に裁きを委ね、自分の義を立てようとする行為が、「恥ずべきこと」であり、「敗北」であり、「不義」であると主張しているのである。

 実際、たとえ自分はクリスチャンであると主張し、自分の正しさを公共の裁判の場で証明し、その裁判で勝訴したとしても、兄弟を訴えたことで主なる神に「恥ずべきこと」「不義を働いた」と判断され、「敗北」と見做されるのなら、私たちは神を畏れなければならない。

 このようなことを考慮すると、教会の中で正しく裁こうとすることが神の恵みを損なうのではなく、むしろ「さばくな」「神は愛である」と言って問題から目を逸らし、対処する責任から逃避することが、その問題を教会の外へと追い出し、不信者の前に持ち出されることになり、キリストの体を余計傷つけることになるのではないだろうか。

 「兄弟姉妹の交わりにおける健全な裁き」つまり御言葉を基として互いに訓戒し合うことを、神の愛や神の恵みと分離したり、対置してはならない。それは一つのものであり、神の栄光と私たちの救いのために互いに干渉し合いながら、キリストの体である教会に働きかけるものだからである。

Ⅰコリント13:4-6

4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、

5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 

テトス2:11-13

11 すべての人を救う神の恵みが現れた

12 そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、

13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。