an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神学不要の神学

 知らない土地に仕事や観光に行って、「あぁ、もう少し下調べしておけばもっと楽しめただろうなぁ」とか「この国の言葉を少しでも勉強しておけば、地元の人ともっとコミュニケーション取れただろうかも」と思ったことはないだろうか。

 例えばイタリアに観光で来る場合、歴史や宗教史、美術史のごく基本的な知識であっても、それらを持っているのと持っていないのとでは、たとえ同じものを見ても受け取れるものが全く違うということは、実際に観光に来た方なら経験していることではないだろうか。勿論、ローマのコロッセオの壮大な姿を見て直感的に「わあぁ、スッゲエー!!」と感動する感性はとても大事だと思う。しかし自分の目の前にそびえ立つ、二千年以上も前の建造物の歴史や様々なエピソードを知っているか否かで、心に残る印象が全く変わってくるのである。

 それは美術館や教会の中にある一枚の絵や彫刻でも同じことが言える。例えばフィレンツェのアカデミア美術館の所蔵されているミケランジェロ作のダヴィデ像は、4点の未完成の作品『奴隷』が展示されているプリジョーニの回廊(Galleria dei Prigioni)の奥に配置されていて、見学通路の順番に従って見ていくと、まるで大理石の塊の中に閉じ込められて、もがき苦しんでいた人間が、その奴隷状態から解放され、自由と力と尊厳が与えられたかのような印象を受けるように配置されている。

f:id:eastwindow18:20130204145254j:plain

 そのダイナミックな配置構成は、ルネッサンスの時代精神を表しているとも言えるが、現実には手前にある未完成の作品の方は、ミケランジェロが29歳の時に完成させたダヴィデ像よりも20~35年近く後に作られていたものである。そこにはダヴィデ像に見られるような、自分の才能を世に見せつけようという新進気鋭の若手芸術家の特有の気負いはなく、どこか世の辛酸を嘗めた男の苦悩や失望、煩労や苛立ちさえも感じさせるのである。

f:id:eastwindow18:20161127221701j:plain

f:id:eastwindow18:20161127221725j:plain

 しかしもしあなたがこれらのミケランジェロの作品を見上げて感動しているうちに、心の中に「この像が何を表現しているのか」「ダヴィデが手に持っているのは何だろう」「なぜミケランジェロは完成することができなかったのだろう」など、次々に好奇心が湧き始めてきているの対して、ツアーガイドの人が「芸術は頭ではなく、心で感じるものです!」「知識ではなく、心の目で見て感動してください!」となどと言って何も説明してくれなかったら、あなたは一体どう思うだろうか。

 同じように昼食に入ったレストランで、たまたま隣のテーブルで食事をしている夫婦が大の日本びいきで、寿司が大好きだとか、ジブリのアニメのことを嬉しそうにイタリア語で話しかけてきたとしよう。あなたは片言の英語でも何とか相手に通じているのが楽しくて、「あぁ、日本帰ったら英語勉強し直そうかな。イタリア語も話してみたいなぁ。楽しいだろうな」と呟いたとする。すると同じガイドの人が、「コミュニケーションがとれれば十分ですよ。わざわざ語学を勉強しなくても」などと言ってきたら、どう感じるだろうか。

 食通の街ボローニャで、本場の郷土料理を食べて感動し、イタリアの食文化や料理を学びたいという素朴な思いを、「くだらない」とか「必要なし」と誰が否定できようか。

 国際結婚において、相手とのコミュニケーションに身振り手振りで十分だと思う人はいない。相手のより自然な在り方や考え方を知るため、相手の母国語を学ぼうとするか、少なくともお互いに深くわかり合うための手段として英語などの共通語を十分に学ぼうと努力するのがごく自然な選択だろう。

 いつの時代でも「神学など必要ない。大事なのは神との交わりだ」と、ともすると霊的に思える主張をする者はいる。まるで「神学」つまり「聖書の啓示を体系的に学ぶことによって、神を知り、神と交わることの確かな土台を得る行為」が、神との霊的な交わりから独立したものであるかのように扱っているのである。だから、このような主張における「神学」の定義に、歪曲と偏見が混ざっているのは明らかである。

 「医学など学ぶ必要ない」と主張する医者に、あなたの病気の治療を委ねるだろうか。「法律を調べる必要など全くない。私の判断は正しいから信頼しなさい」などと語る弁護士に、あなたは自分の問題を任せようとは思わないだろう。

 結局「神学など必要ない」と主張する者は、「神学不要の神学」を「自分サイズの神学」(神学の有効性を判断するには神学的見識が必要であり、それ自体、一つの神学をなしている)とし、「聖書を体系的に学ばなくても、自分の知識や解釈、実践は常に正しく、いつでも全体性や客観性を持ちうる」と自負していることを示しているのである。

 勿論、高度な神学を学んだ者は、それを判りやすい言葉で伝える責務を負っている。学問的自己満足やキャリアのために学ぶのは、学ぶ対象自体が要求している本来の目的から離れてしまうからである。小学校の先生や教会の日曜学校の教師は、自分が受けた高度教育と経験を、わかりやすく「翻訳して」伝える特殊な能力も習得している。しかしそのような教師たちは、決して自分の生徒たちに「勉強なんて必要ない」とは言わないだろう。自己矛盾になってしまうのだから。

マルコ12:29-30

29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。

30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 

 私たちは、心だけでも、思いだけでも、力だけでもなく、「知性も尽して」主なる神を愛するように命じられている。御子イエスは私たちの存在をなすこれらのすべての要素を罪と滅びから贖い出すために、ご自分のすべてを十字架の上で捧げてくださったのだから。