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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

真の悔い改めとサタンの欺き

 ある地域教会に一人の男(仮にAとしよう)がいた。彼はその教会の牧会方針を絶えず非難し、結局、口汚く罵りながらその教会から離れて行った。近辺の教会を転々とし、その度に教会指導者に反対し、問題を引き起こしていた。

 Aがもともと所属していた母教会の牧師が変わり、牧会方針が大きく変化したという噂に聞いたAは、教会に戻ってきてしばらく大人しく礼拝に参加していたが、時の経過とともに、自分の伝道や海外宣教活動に参加した経験を証し始めた。Aの過去の言動を全く知らない新しい信徒たちは、Aの証しに魅了され、新任牧師も会衆の前でその証を祝福していた。

 Aの悪い証しをよく知っていた兄弟らは、新任牧師に何度も個人的に注意を促していた。しかし牧師は、「過去は過去」「神は愛であり寛容だ」「私は彼の信頼を勝ち取るすべを知っているつもりだ」と言って、兄弟らの警告を蔑ろにしていた。

 結局、一年も経たないうちに、Aはその牧師と教会に「愛がない」と罵りながら、十人以上の新しい会員を引き連れて自分の「ミッション」を開き、まるで「聖書的な教会を建て上げた」使徒であるかのように振る舞っている。

 洗礼者ヨハネはその宣教において「悔改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)と語っていたが、聖霊による真の悔い改めには、必ずそれにふさわしい「実」を結ぶものである。そして周りの人々はその「実」を確かに見るのである。それは風にさざめき立つ「葉」ではない。悔い改めの「実」である。

 アダムとエバのイチジクの葉の腰巻が、彼らの恥を隠すことができなかったように、私たちがいくら「善行」や「奉仕」、「伝道」、「ビジョン」、「聖書の知識」などを振りかざしても、誠実に悔い改めていない罪は神の前は勿論、人の前においても消えてなくなることはないのである。そしてキリストの血によって清められていないが故に、その罪は過去と同じようにその人の心を支配し、同じ種類の言動を繰り返す。

Ⅰテモテ5:22

軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。

 「手を置く」いわゆる「按手の祈り」は、「祝福」や「共有・分与」を意味する。もし真に悔い改めていない、罪を隠している者の上に手を置いて祈るなら、その手を置いて神の祝福を祈った人は、無意識のうちにその者の罪にある立場を擁護することになってしまう。だから使徒パウロは、「他の人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい」と続けているのである。

 勿論、「悔い改めました」と告白する兄弟を常に疑いの目で見続けるのは、御霊の実にふさわしくない。自分が疑われる立場にいることを想像してみれば、触れないで誤魔化す方がいいと思うのも普通だろう。

 ただもしその選択によって、自分が主の御前で罪ありと見なされる可能性があるのなら、誰でも真剣に祈り、聖霊の導きを求めるのではないだろうか。

 一つの知恵として、もし誰かがあなたに対して何か罪を犯し、その後、謝罪してきたならば、その人と二人だけの機会を見つけ、具体的にどのような罪を犯したのか、質問することは有効である。ただ漠然と「悔い改める」というのではなく、「どのような言動が悪であったのか」を落ち着いて聞くことによって、その人の悔い改めが誠実であるかどうか、大概判断できるのである。

 もしその人があなたに対して具体的にまた明確に自分の犯した過ちを認めるのなら、その人の悔い改めは真摯なものだろう。逆に的外れなことを言い出したり、あなたの質問にイライラしだしたり、いわゆる「逆ギレ」をする傾向を見せるなら、残念ながらその「悔い改め」は表層的かその場しのぎの適当なものである。主なる神が、必要な時と方法をご存じである。

 信仰者は赦しや和解も、人情的・便宜主義的観点ではなく、正義の審判者である主イエス・キリストの御前で行う。サタンの策略に巻き込まれないためである。

Ⅱコリント2:10-11

10 もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。

11 そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。