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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(13)神による放棄

ローマびとへの手紙 十字架の言

ローマ1:24-32

24 ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。

25 彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。

26 それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、

27 男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。

28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。

29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、

30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、

31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。

32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。 

 この短い箇所で、使徒パウロは三度も「神は、彼らを~任せられた」という表現を使っている。

  • 24節 神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。
  • 26節 神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。
  • 28節 神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。

 人間が「神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなり」「不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せ」「神を認めることを正しいとしなかった」ので、神は人間が望むように心の情欲の奴隷となり、実際に自分の体を互いに辱め、好き勝手に汚すまま放っておいた、というのである。

 この「任せられた」と訳されている原語「παραδίδωμι paradidōmi」は、「投げ捨てる」「敵に手渡す」「投獄する」という意味も持つ。

 何という峻厳な啓示だろうか。愛の神が人間と交わりを持ちたいと願い、ご自分の栄光を啓示しているにも関わらず、人間は絶えずそれに背を向け、神の真理を認めようとしないので、神は人間の強情な心の牢獄に残るままにし、神の敵サタンの奴隷として生きるままに放置した、というのである。

 勿論、この啓示をもって「神は残忍だ」と裁くのは、傲慢な人間の表層的な意見でしかない。そのような人間は、もし神が人間のことを「無理矢理」救い出したとしたら、「聖書の神は横暴で、人間の意志を無視する」と断罪することであろう。もし神が望むなら、神は背き続ける人間を「強引に」救うことができるだけの、権威と力を持っている。被造物はすべて神のものであるから、望むようにできる主権をもつ。しかし、神は「愛の神」であるがゆえ、人間が自分の思いによって神を求め、愛することを望んでいるのである。

 しかしここに大きな問題がある。人間の意志は罪によって穢れており、自ら神の栄光を求めようという願望を持たないのである。宗教を通して自分の幸せや魂の救い、問題の解決、試練からの解放を探す人は大勢いるが、神の栄光だけを求め、たとえ迫害や貧困、問題の中にとどまらなければならないとしても、それだけを求め続ける心を人間は罪のために失ってしまっているからである。

ローマ3:9-18

9 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。

10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。

11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。

13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。

15 彼らの足は、血を流すのに速く、

16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

17 そして、彼らは平和の道を知らない。

18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 

 しかし主なる神は、宗教的義務の行いで自分を義とする欺瞞や、神の裁きに対する恐怖に縛られていた人間に対して、救いの手を差し伸べてくださった。愛する唯一の御子を人として遣わし、十字架の死によって人間が受けるべきであった裁きを受けるままにされたのである。罪の中にいることを頑なに選んだ人間の救いのために、御子を十字架の上で「見捨て」、その身代わりの死によって、神を求めようとしない頑なな心に「罪の赦し」を提供し、人間が神を求め、神に感謝することができる可能性を与えたのである。

マタイ27:46

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 

 もし一人の人間が、主なる神を求める心をもち、全能の神による日々の守りを実感し、苦難と試練の時にも不思議な平安を心に保ち、愛の神のその愛を喜べるとしたら、それはただひたすら、神の御子がその人の身代わりとなって「人間から捨てられ」、「投獄され」、「敵の手に渡され」、その罪なき体を辱められるままにされ、十字架の上で呪いの死の中に「見捨てられた」からであることを決して忘れてはならない。

 

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