創世記1:1-3
1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
聖書の啓示の一番初めの箇所である。この天地創造においてキリストの名は直接書かれていないが、聖書全体を読むと、天地創造の時、否それよりも前からキリストは存在しており、その働きの「主役」であったことが読み取れるのである。
まずイエス・キリストがエルサレムで十字架に架けられる前の晩に、祈りの中で言った言葉にこうある。
ヨハネ17,5;24
5 父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。
24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。
これは驚異的な啓示である。外観上は全く他の人と変わらない一人の人間が、神を「父」と呼び、そしてこの世界が造られる以前、つまり時間や空間、物質的宇宙とその中にあるあらゆる被造物が造られる前から、父なる神の栄光に輝き、愛された存在としてその御そばに存在していたと宣言しているのである。これは自身の「永遠性」、さらに言えば「神性」を宣言していたに他ならない。ユダヤ教的宗教観では、ありえないどころか、神に対する絶対的冒涜であった。実際、当時の宗教家たちはイエスを殺そうとした。現代であったら、病院に隔離されるところだろう。しかし、イエスははっきりと自身の永遠性を公言したのである。それは彼自身、自らのアイデンティティーを偽ることができなかったからである。
ヨハネ8:55-59
55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。
56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
57 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
59 そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
「アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである。/ πριν αβρααμ γενεσθαι εγω ειμι / Before Abraham's coming -- I am」。文法上では明らかな誤りであっても、イエス・キリストは過去形ではなく「I am」と表現し、自分が燃える柴の木から預言者モーセに語りかけた主なる神であることを宣言している。
出エジプト3:13,14
13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
ユダヤ人達はイエスが言わんとしたことを明確に理解したからこそ、石をとり、冒涜者として石打の刑で殺そうとしたのである。
このキリストが天地創造の前から存在し、父なる神と創造の働きを行ったという啓示は、聖書の他の箇所でも明確に示している。
箴言8:22-31(新改訳)
22 主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
23 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。
25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
26 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。
27 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。
28 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、
29 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、
30 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
31 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。
ヨハネ1:1-3
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
箴言においては「自意識をもつ知恵」として、ヨハネにおいては「言(ことば)」として、万物創造のわざを執行していたのである。コロサイ人の手紙の啓示はさらに明確である。
コロサイ1:15-17
15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
(この「生まれた」という表現は、勿論「物質的な誕生」を意味しているのではない。時間や空間さえも造られる以前の、神以外は如何なるものも神の全知の中でしか存在していなかった「永遠の状態」が啓示されているのである。しかしこれ以上のことは、私は言葉では説明できないし、十分理解もできない。)
これらの啓示を統合して冒頭の創世記の聖句を解釈すると、その中に「永遠のキリスト」が浮かびあがってくる。
בראשית
初めに(冠詞がついていない。ラテン語訳のVulgataは「In principio」と訳している。)
ברא
創造した。(この動詞の主語は常に「神」である。単数形)
אלהים
神。エロヒム(唯一神が複数形で啓示されている。尊厳を表す複数形とも言われているが、「創造した」という動詞の単数形と合わせるこの特殊な表現は、全ての本源である父なる神と、「知恵」であり「言」であり「意識」である御子、そして聖霊が、創造のわざを共に執行していたことを啓示している。)
またなぜ神は光を創造するにあたって、わざわざ「光あれ」と言われたのか、という疑問も、「ことば」である御子キリストが全てのものを造られたという上述の聖句によって説明されるものである。物質的光が造られる前から、神の栄光として御子の光がこの宇宙を照らしたのである。確かに「光は造られた」とは書かれていない。「光があった」と書かれているのである。(それはまた「意識」とも言えるかもしれない。)
詩篇36:9
いのちの泉はあなたのもとにあり、
われらはあなたの光によって光を見る。