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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

自分自身の重荷を負い、互いに重荷を負い合う

キリストにおいて 弱さのうちに顕れるキリストのいのち ガラテヤびとへの手紙

ガラテヤ6:1-10

1 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。 

2 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。 

3 もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。 

4 ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。 

5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。 

6 御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。 

7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 

8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 

9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 

10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。 

  この箇所には、霊の人、つまり御霊に導かれ、キリストの愛にあって生きる人の特徴が啓示されている。「肉によって虚栄に生きる人」の特徴、特に他者との関係における特徴が、「もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。 」「互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。」(ガラテヤ5:15,26)という二節で表されているように、他者に対する「不一致、強情、非難、否定、拒絶、競争、妬み、虚栄」によって支配されているのとは対照的に、「霊の人」の他者との関係は、「柔和な心、訂正、自省、憐れみ、謙虚、自己責任、善の共有」などの要素で特徴づけられている。

 特に核をなす要素だと思われるのが、神の前における自己責任の認識ではないだろうか。「神への畏れ」という表現で言い換えることができるかもしれない。

  • 自分は現実的に何者であるか。
  • 何をしてきたか。
  • 何をすべきか。

 これらの問いに対して、他者や置かれた環境に責任転嫁せず、誤魔化さないで実直に自己責任を果そうと生きるのが「霊の人」の生き方であろう。実際、教会の問題や社会の問題を指摘するのは容易いし、それに対して他者がすべきことやしていないことに言及するのも簡単である。しかしそれと同時に、否、それよりも先に、上述の問いを自分に適用するのは、考える程負い易くはない「自分自身の重荷」であることは皆知っているのである。

Ⅰテモテ1:12-17

12 わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。 

13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。 

14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。 

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 

16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。 

17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。

 この非常に簡潔な証しは、使徒パウロが長年宣教に命を懸けてきた後で書かれたものである。「信仰を持つ以前の自分が何者で何をしたか」「どうして今の自分があるのか」「今の自分は何者であるか」「これから何をすべきか」が実に明確に書かれている。特に心を打つのは、使徒パウロの自己認識である。

主はわたしを忠実な者と見て

わたしは、その罪人のかしらなのである。 

 「主イエス・キリストは忠実な者と見てくださっているが、私自身は主の憐みの対象である罪人のかしらなのである」と告白しているのである。「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった」とあるので、明らかに救われる前のパウロとその後では全く違うという自己認識があるものの、それでも今の自分は主の恵みによってあるに過ぎない、という現実的な認識を失っていないのである。実際、「わたしは、その罪人のかしらなのである」という文章は、原文においても現在形である。

黙示録22:8,9

8 これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、 

9 彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。 

 使徒パウロ以上に長い期間、福音宣教に仕え、福音のゆえに流刑の島にいた使徒ヨハネは、御使いに「ただ神だけを拝しなさい」という戒めを受けた。主イエス・キリストや天上の栄光の幻を見る恵みを受けたにもかかわらず、使徒は御使いの足元にひれ伏し拝もうという誘惑に襲われたのである。

マタイ11:28-30

28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 

29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 

30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 魂が罪や自己欺瞞、虚栄のなかにある時、私達は本来負うべきでない重荷を負って疲れ切っている。そして心は言いようのない空しさと渇きで満たされてしまう。しかし、そのような魂に対して、主イエスは「私のもとに来なさい」と呼びかけておられる。その呼びかけに応じて主イエスのくびきを負う時、私達は「自分自身の重荷」を知り、「互いに重荷を負い合う」という意味を主イエスから学ぶのである。