an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神のともしびはまだ消えず

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Ⅰサムエル3:1-4a

1 わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。 

2 さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。 

3 神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、 

4a 主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。

 モーセの兄であり、エジプトを出たイスラエル民族の初代の大祭司アロンには、四人の息子、ナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルがいた。長男ナダブと次男アビウは、モーセとアロンと共にシナイ山でイスラエルの神を見た(!)(出エジプト24:9-11)それにもかかわらず、彼らは神の前での不敬な態度で奉仕しようとして火に焼かれて死んでしまった(レビ10:1,2)。残されたエレアザルとイタマルが、祭司の職に任じられて祭司となった(民数3:4)が、後にエレアザルがアロンの後を継いで大祭司に任命された(民数20:23-28)。

 その後、エレアザルの長男ピネハスは、モアブの地で背きの罪を犯したイスラエルの民の贖いを行い、民全体が滅ばされることから救ったゆえ、主なる神から永遠の祭司職の契約を授けられた。

民数25:11-13

11 「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。 

12 このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。 

13 これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。 

 このピネハスの契約は、後にイスラエルのためだけでなく、全人類の罪のために贖いを行い、全ての人のための永遠の大祭司となったイエス・キリストを予示したものであった。 

 モーセの死の後、ヨシュアによって約束の地に入ったイスラエルの民は、ヨシュアの死と共に士師時代を迎える。しかし、この約三百年近い期間の間に、イスラエルの民は、神と御言葉から遠く離れてしまった。確かにヨシュアは死ぬ直前、民にこう訓戒していた。

ヨシュア23:6

それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。

24:25-27 

25 こうしてヨシュアは、その日、民と契約をむすび、シケムにおいて、定めと、おきてを、彼らのために設けた。 

26 ヨシュアはこれらの言葉を神の律法の書にしるし、大きな石を取って、その所で、主の聖所にあるかしの木の下にそれを立て、 

27 ヨシュアは、すべての民に言った、「見よ、この石はわれわれのあかしとなるであろう。主がわれわれに語られたすべての言葉を、聞いたからである。それゆえ、あなたがたが自分の神を捨てることのないために、この石が、あなたがたのあかしとなるであろう」。 

 しかし、士師記を読むと、民はモーセの律法など完全に忘れ、「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなって」いた(士師21:25)ことが記録されている。そんな時代の末期に大祭司エリが登場するのである。紀元一世紀の政治家及び著述家フラウィウス・ヨセフスの著作『ユダヤ古代誌』によると、ちょうどエリの代で、大祭司の任務が、エレアザルの子孫から、本来その永遠の契約を与えられていなかったイタマルの子孫であるエリに移行されたのである。それがなぜ起きたかは聖書は説明していない。ただ一つわかることは、士師の時代に入って間もなく、民は神と御言葉を捨てて、自分自身が趣くままに好きなことをするようになっていたのである。

 冒頭に引用したサムエル記の記述のように、神の天幕も神の箱もあり、祭壇の火はまだ残っていて、いけにえも捧げられていた(Ⅰサムエル1:3;21;2:13)。しかし、実際にはモーセの律法を軽んじられ、主の霊による預言も幻も稀であった。祭司として神の天幕で率先して神に仕えていなければいけなかったエリの息子たちの邪悪な行動を読めば、神の民が如何に御言葉から離れて生きていたかよく理解できる。

Ⅰサムエル2:17

このように、その若者たちの罪は、主の前に非常に大きかった。この人々が主の供え物を軽んじたからである。 

1サムエル2:22-25

22 エリはひじょうに年をとった。そしてその子らがイスラエルの人々にしたいろいろのことを聞き、また会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝たことを聞いて、 

23 彼らに言った、「なにゆえ、そのようなことをするのか。わたしはこのすべての民から、あなたがたの悪いおこないのことを聞く。 

24 わが子らよ、それはいけない。わたしの聞く、主の民の言いふらしている風説は良くない。 

25 もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」。しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである。 

 本来大祭司として神から選ばれていなかったエリの息子らの放縦は、終わりの時に噴出している「聖職者ら」のスキャンダルと見事に重複していないだろうか。

 しかしそんな霊的暗闇に覆われた時代でも、「神のともしび」はまだ消えておらず、幼きサムエルが名指しで神に召されたように、今でも主なる神は「小さき者」「幼き者」「弱き者」を暗闇の中に見出し、名指しで語りかけてくださるのだ。